うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

あるがままに―ラマナ・マハルシの教え

先日の日記「不滅の意識」に続いて、「あるがままに」です。こちらのほうが、よりヨーガに言及されている内容が多くなっています。ただ、いきなりこちらを読むよりも「不滅の意識」を読んでからのほうが、特に他の本(サーンキヤ哲学や各種ギーター、スートラ)の説明によるプルシャ、プラクリティなどのことばの解釈に慣れている人には、マハルシ師の使うことばのニュアンスがつかみやすいかと思います。
表現が独特です。

<44ページ 第2章 真我の自覚と無知 より>
(質問への長い回答の一部)
本当は、あなたがみじめで不幸であるべき理由など何もない。あなたが自分で、無限の存在であるあなたの真の本性の上に限界を押しつけておいて、それから自分は限定された創造物だと嘆くのである。そしてありもしない限定を超越するために、あれやこれやといった霊的修練を始めるのだ。

「ありもしない限定」という表現もそうですが、マハルシ師のことばには、「そうだ、限定なんて具体的にイメージできるものはなにもないじゃないか」と気づかせてくれるような力があります。

<64ページ 第3章 ジニャーニ(賢者) より>
質問者:ジニャーニによって実現された純粋意識と、われわれが根本的体験として認めている「私は在る」という感覚との間にはどのような関係があるのでしょうか?
マハルシ:分割不可能な純粋な存在意識は、本来のあなたであるハート、つまりフリヤダムである。根本的体験である「私は在る」という感覚は、そのハートから立ち現れる。それは完全に純粋な性質(スッダ-サットヴァ)をもっている。あたかもジニャーニのなかに内在するかのように見える「私」は、ラジャス(活動性)やタマス(不活発性)によって汚されていない純粋無垢な形態(スッダ-サットヴァ-スワルーパ)なのである。

100%サットヴァな状態である瞬間というのは、困難といわれるようなものと共存しながらも、心がすがすがしい。そんな気分のときかと思います。瞬間を感じることは、きっと、そんなに難しいことではないのです。

<86ページ 第4章 真我研究──理論 冒頭解説文章 より>
しばしば彼は伝統的瞑想法やヨーガが、瞑想する主体と瞑想の対象である客体の存在を必要とすること、そしてそのような主体-客体の関係性が、「私」という想念を消し去るどころか力づけてしまうことを指摘した。

こころの掃除ではなく、自我への装飾としての瞑想の弊害。

<92ページ 第4章 真我研究──理論 より>
質問者:真我は心を超越し、しかもその実現は心によって為されると言われています。「心がそれを想うことはできない。心によってそれを考えることはできない。心だけがそれを実現できる」と。どうすればこの矛盾を解くことができるのでしょうか?
マハルシ:(回答の後半)心が真我である至高の意識のなかに消え去るとき、好む力、行う力、知る力といったさまざまな力も自意識のなかに現れた想像の産物として見られ、完全に消える。考えることや忘れることとして機能する不純な心こそが生と死の輪廻、サンサーラであり、考えることや忘れることといった活動が消滅した真実の「私」だけが純粋な解脱である。そこに誕生と死の原因であるプラマーダ(真我の忘却)はない。

見るもの、見られるものの二元論を、独自のことばで非常にわかりやすく表現してくれているくだり。丁寧なんだよなぁ。ことば選びが。ことば選びの点で、とても勉強になるところです。

<143ページ 第6章 真我研究──間違った認識 より>
質問者:『ウパデシャ・サーラム』の一部に、「ハートのなかにとどまることが最高のカルマ、ヨーガ、バクティ、そしてジニャーナである」とあります。このハートとは何を意味するのでしょうか?
マハルシ:存在するすべての源、すべての生けるものがそのなかに生き、ついにはすべてがそのなかへと消え去るそれ、それがハートである。

アートマンではなく、「ハート」という。

<145ページ 同章 ハートについての質問への返答より>
 真我が身体のなかのどこに位置すると考えようとも、真我がそこに存在すると考える人にとっては、思考の力によってそのように現れる。しかしながら、最愛のハートだけが、立ち現れては沈みゆく、あの「私」にとっての避難所なのである。(中略)ハート、源はすべての始まり、中間、そして終わりである。ハート、至高の空間はひとつの形態ではない。それは真理の光である。

なにかあたたかい拠りどころのようなイメージなのかな。ひとりのなかでは「共感」というものが起きないので、たぶん人生経験上まだ「最愛」がつかめていないのだと思います。

<151ページ 第7章 明け渡し より>
質問者:自我を消滅させるための最上の方法は何でしょうか?
マハルシ:各人がそれぞれ最も魅力を感じ、最も易しいと思うものが最上の方法である。すべての道が、真我のなかに自我を融合させるという同じ目的地へとつづいている。バクタ(帰依者)はそれを明け渡しと呼び、ヴィチャーラ(真我研究)に従事する者はそれをジニャーナと呼ぶ。どちらも自我を、それが現れた源へ戻し、そこに融合させようと努力しているのである。

このような教えに触れると、一般的に「ストレス」といわれるものが、すごくありがたく思えてきたりします。

<150ページ 第8章 グル より>
質問者:私はいつもあなたの御足元にいます。バガヴァーン、何かウパデシャ(教え)をいただえますでしょうか? さもなければ、六百マイルも離れたところに住む私に、どうして助けを得ることができるというのでしょう?
マハルシ:サッドグル(真の師)はあなたの内側にいる。
質問者:それを理解するためにサッドグルの導きが必要なのです。
マハルシ:サッドグルはあなたの内側にいる。
質問者:私は目に見えるグルが欲しいのです。
マハルシ:目に見えるグルが、サットグルは内側にいると言っているのである。

最後の一行がすごい。ここは、息を呑むような迫力。

<180ページ 第8章 グル より>
質問者:私が言いたかったことは、あなたの姿を想い出すとき私の心が力を得るように、あなたの側からの受け応えも欲しいのです。私ひとりの努力とともに置き去りにしないでください。それは結局か弱いものなのです。
マハルシ:恩寵とは真我である。私はすでに言ったはずだ。もしもあなたがバガヴァーンを覚えているなら、それは真我によってそうなるように促されているのである。それゆえ、すでにそこには恩寵があるのではないだろうか? あなたのなかで恩寵が働いていないときがあるだろうか? あなたが覚えているということが恩寵をもたらしたのだ。それが受け応えであり、あなたへの激励である。そして、それが真我である。だから心配することなどない。

バガヴァーン=師(グル)。自分が師を覚えていることが、激励。

<235ページ 第12章 世界の中で生きる より>
質問者:私は仕事をやめて、いつもバガヴァーンとともにいたいと思っています。
マハルシ:バガヴァーンはいつもあなたとともに、あなたのなかにいる。そしてあなた自身がバガヴァーンなのである。このことを悟るために仕事をやめる必要も、家庭を放棄する必要もない。放棄とは仕事着を脱ぎ捨てることや家族の絆を断つことではなく、欲望、愛着、執着を捨て去ることである。

ヨーダみたい。

<235ページ 第12章 世界の中で生きる より>
質問者:グリハスタ(家庭をもつ者)が解脱を求めながら生きていくにはどうすればいいのでしょうか? 解脱を成就するためには放浪の僧となる必要があるのではないでしょうか?
マハルシ:(回答の後半)あなたが家を棄てても、それはグリハスタという想いがサンニャーシンという想いに変わり、家庭の環境が森林という環境に代わるだけのことだろう。だが、心という障害はつねにそこにある。

「心という障害はつねにそこにある。」名言。

<238ページ 第12章 世界の中で生きる より>
質問者:他の人たちよりも思考を使う仕事をしながら、どうやって心を静かに保てるのでしょうか? 私は校長の地位を棄てて隠遁したいのです。
マハルシ:(回答の後半)仕事をしているのはあなただなどと想像してはならない。底辺に流れているもの、それが仕事をしていると考えなさい。その流れと一体となりなさい。もし急がず、心を落ち着かせて働けば、仕事は妨げにならないだろう。

これは、「不滅の意識」の47ページにも同じような問答がありました。

<250ページ 第13章 ヨーガ より>
(冒頭の説明より)
訪問者がこれらの修練(ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ)に関してシュリー・ラマナに尋ねると、たいてい、彼はハタ・ヨーガをその身体への固執ゆえに批判している。(中略)
 シュリー・ラマナは彼の帰依者たちにクンダリニー・ヨーガを勧めたことは一度もなかった。(中略)彼はクンダリニーと呼ばれる霊的な力やチャクラの存在を認めてはいたが、たとえクンダリニーがサハスラーラに到達しても真我の実現は起こらないと言った。彼によれば、最終的な実現のためにクンダリニーはサハスラーラを超えていき、アムリタ・ナーディ(パラナーディまたはジーヴァナーディとも呼ばれる)を通って下降し、胸の右側にあるハート・センターに入らなければならないからだ。真我研究はクンダリニーを自動的にハート・センターに送るため、別のヨーガの訓練の必要はないと彼は説いたのである。

ここは、重要なところかもしれません。以前、ヨギではない友人が「ヨガは、やったら身体にいい兆候が感じられるからこそ、オウム真理教などに利用されたりした、そういうものなんだろうなぁ。」と非常にニュートラルなスタンスで発言したとき、とても信頼できる人だなぁと思ったのですが、超能力的なものを求める煩悩の引き金になる要素をはらんでいる点について、マハルシ師もこのように言われているのだと思います。

<261ページ 第13章 ヨーガ より>
質問者:ハタ・ヨーガは効果的に病気を払いのけます。そのため、それはジニャーナ・ヨーガの必要な準備段階だと唱道されています。
マハルシ:それを唱道する者たちにそれをさせればいい。(中略)心の健康のためには身体の健康が欠かせないという考えに沿って進めていくなら、身体の世話にはきりがないだろう。身体そのものがひとつの大きな病気なのである。この病気に打ち勝つためにわれわれがすべきことは、ただ静かに在ることだけである。

うわお。

<294ページ 幻影と超能力 より>
質問者:テレパシーのような能力を得るのは良いことではありませんか?
マハルシ:(回答の後半)何のための超能力なのか? 超能力者になろうとする人は自分の力を他の者たちに誇示して、賞賛を求めているのであり、賞賛が得られなければ幸福にもなれないだろう。そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされる。彼は自分よりも高い能力をもった者に遭遇することさえあるだろう。それは嫉妬を生みだし、さらに不幸を招くだろう。
 どちらが本当の力だろうか? 虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か? 平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)である。

「虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?」。このようなシンプルな問いかけも、最大公約数の表現。

<302ページ 第16章 困難と体験 より>
質問者:私が想念のまったくない状態にいようと試みると、どうしても眠ってしまいます。どうすればいいのでしょうか?
マハルシ:(回答の後半)われわれは眠り過ぎることも、まったく眠らないことも避けるべきである。ただ適度な睡眠を取りなさい。過度の睡眠を避けるためには、想念あるいはチャラナ(心の活動)を避けなければならない。われわれは適度な量のサードヴィックな食事だけを摂るようにこころがけ、過度の身体的活動に従事してはならない。想念、活動、食事をより制御するほど、睡眠を制御することも可能となるだろう。だが、『ギーター』が真理の研究者たちに説明しているように、節度を守ることが基準となる。聖典が述べるように、すべてのサーダカにとって睡眠は第一の障害である。第二の障害はヴィクシェーパ、あるいは注意を逸脱させる世間の感覚的対象物である。第三はカッシャーヤ、あるいは過去にあった感覚的対象の体験についての想念である。第四はアーナンダ、至福である。至福もまた障害とみなされる。

(補記:サーダカ=霊的修行者)
もう、難しく考えて瞑想する気なんてなくなっちゃうでしょ(笑)。

<307ページ 困難と体験 より>
質問者:瞑想には環境によって起こる変化が見られませんか?
マハルシ:確かに変化は見られる。あるときは天の啓示が起こり、瞑想は自然とやさしいものとなる。あるときは何度試みても瞑想は不可能のように見える。これは三つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の作用によるものである。
質問者:それは人の活動や環境によって影響されるのではないでしょうか?
マハルシ:活動や環境が影響を与えることはできない。障害をつくり出すのは「私が行為者だ」という感覚である。

障害をつくり出すのは「私が行為者だ」という感覚である。名言。

<328ページ 創造の理論と世界の実在性 より>
質問者:では、世界は夢と同じだということでしょうか?
マハルシ:あなたが夢を見ている間に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じることはないだろう? あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだ人と会話をするような夢を見たとしよう。一瞬あなたは夢のなかでその夢を疑って自分自身に言うだろう。「彼は死んだのではなかったか?」。けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、夢の目的に合わせてその人が生きていてもよいとする。つまりは夢として、つまりはあなたがその実在を疑うことを許さないのである。夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の実在性を疑うことはできない。心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることができよう。これが夢見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。どちらも心の産物なのである。

この説明は、もう腰が抜けるほどすごい。

<339ページ 第18章 輪廻転生 より>
質問者:仏教の見解には、個人の魂という概念に一致した転生する実存は存在しません。これは正しいのでしょうか? これは輪廻転生する自我というヒンドゥー教の概念と一致するのでしょうか? 魂とはヒンドゥー教の教義が示すように、何度も何度も生まれ変わる実体なのでしょうか、それともそれは単なるサンスカーラ、精神的傾向の集合体にすぎないのでしょうか?
マハルシ:真我は永遠に存在し、影響を受けない。転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。それは真我実現によって超越されるのである。
 輪廻転生はヒンドゥー教の偽りの分派による概念である。それゆえ、それは仏教徒に否定された。現状における無知は、意識(チット)と生命のない(ジャダ)身体との同一視によるものである。

「輪廻転生はヒンドゥー教の偽りの分派による概念である。」と、きっぱりおっしゃってます。

<376ページ 第20章 苦しみと道徳 より>
質問者:動機についてはどうでしょうか? 行為をするのに、動機は重要なものではありませんか?
マハルシ:何であれ誠実に、高潔な純粋さと平和な心で行なわれた行為は善い行為である。欲望の汚れと心の乱れとともに為された行為は、すべて悪の行為とみなされる。「結果が良ければじゅうぶんだ」と考えて、悪い手段を用いて善行(カルマ)を行なってはならない。なぜなら、手段が悪いものなら善行でさえ悪いものとなってしまうからである。

過程も行であるから当たり前なのだけど、「結果オーライ」という言葉の魔術についての警告として、重要なところ。

問答形式の問いの方にも重要な投げかけが多く、特有の表現に慣れてくると、自分の考え方の癖と照らし合わせてはっとする部分が多くなる本でした。

あるがままに―ラマナ・マハルシの教え

ナチュラルスピリット
売り上げランキング: 37442
おすすめ度の平均: 5.0
5 2009年2月に再版されました!
5 The best.
5 本物の聖者の智慧を知りたい方に
5 あるがままに
5 こんなにも理路整然とマハルシの教えを語っている本はない