うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

精神的指導者とか宗教的指導者とか

まえにヨガクラスにおいでいただいた人が「シュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカールさんの本の紹介でブログを知りました」とおっしゃったのをきっかけに、クラスの前に「精神的指導者」について雑談したことがありました。
まずは基本事項として、シュリ・シュリがつくラヴィ・シャンカールさんとつかないラヴィ・シャンカールさんの違いを説明。ちょうどBGMに、シュリ・シュリがつかないほうのラヴィ・シャンカールさん=ノラ・ジョーンズさんのお父さんの音楽をかけていました。(これね


そのときは時間があまりなかったので「精神的指導者って概念が、日本にはないからねぇ」という話をしつつ、日本でいうと美輪明宏さんと瀬戸内静寂さんを足したような存在感というか……(笑)なんていいながら、有名どころでほかにラムデブさん、スワミラマさん、博士だけどディーパック・チョプラさんもそういう域では…なんて話をしました。(ジャンルはぜんぜん違うけど、なんとなく経済学者のトマ・ピケティさんに対するメディアや書店での扱いを見ていて、そう思った)


わたしはヨーガやその周辺のことを話すとき、日本人のこころの構造、国の状況に合わせて説明をするように心がけています。
たとえばドネーションひとつをとっても、日本は宗教国家でもなければ職業と連動するカーストのような仕組みもない。「税金」がその機能を負っている部分が大きいなか「募金」の感覚と照らし合わせてもフィットしない。なので、よくヨガでも見る「チャリティクラス」も、24時間テレビの感覚なのかな、と理解する。


で、精神歴指導者ってのも、日本の場合はそんなわけで、いない。いないんだけど、実はいるかんじでもある。これがおもしろい。
たとえば「この人がこんな発言をした」というので影響力のある人というのはいて、そういう人はそういう感じで本が売れる。でも売り上げの総数としては「自己啓発」と区別がつかず見えにくいので、「こういう感じ」としか説明できない。



インドでは「聖典の解説・コメンタリーができるか」というのが一つの要素になっているように見える。そしておもしろいことに、 日本は宗教国家ではないにも関わらず、似た感じで「古くからの知恵の解説・コメンタリーができる」という技量のある人に視線が集まる。こういうのは、すごくいいなぁと思っています。(池上彰さん、佐藤優さん、もっと前だと山本七平さん)
作家や芸術家の場合は、表現や言葉を紡ぐこと感覚の鋭さもあって真理っぽく聞こえやすい。なので、ひとつの表現のあり方として正しい気がしています。(正しいというのは語弊があるのだけど、売れそう)
そう思うと、瀬戸内寂聴さんて、こっちなんですよね。やっぱり作家さんだと思う。