うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なぜインド哲学をむずかしいと感じるのか

インドの哲学やヨーガの思想を学んでいると、じわじわ見えてくることがあります。この学問特有の雰囲気なのですが、これはとても説明がむずかしい。日本には註解を重ねていくコメンタリー文化が定着していないので、たとえが見つからない。日本の有名な書では「歎異抄」にややそういう様相があるけれど、唯円がしたことは親鸞の言葉の註解ではない。


わたしは単発のインド哲学の講座で(かなり噛み砕くこともあり)「わかりやすい」と言われたりもするけど、「うちこさんは○○について○○とおっしゃっていましたね。じゃあ○○なんですね!」というような質問や問いかけをされると、「まずその脳内文法をやめないと、インド思想を理解するのは無理なんだよなぁ」という気分になります。指導側にいる人の多くは同じ思いを抱えていると思う。


が!  この理由について、山本七平著「日本人は知らなすぎる 聖書の常識」に「まさにこの問題」と思うことが書いてありました。
前半はむずかしいと思うので、最後の「日本のように〜」からだけでも、読んでみてください。文脈があるので、その話題の始まりから引用します。

<121ページ「ユダヤ人の生き方を規定する」より>
 ミシュナとは「繰り返す」といった意味で、元来は、文書化した正典と分けるために口伝であったものを、繰り返し繰り返しして覚えよというところからきた名であろう。
 それを文書化したわけだが、文書化の完結は紀元二二○年で、新約時代の一世紀末ごろまでは、文書化されていなかった。
 その理由は文書化し正典化すると律法解釈が固定化するからということで、正典は聖書だけ、その他、施行規則などはたえず変えていっていいという弾力的な考え方があったからであろう。
 しかし、ユダヤ戦争以後、これが固定化し、ラビ・エフタ・ハナッシーによってガラリヤのディベリアスで編纂された。ハナッシーとは、ここでは学頭とか塾頭とかいった意味である。
 このミシュナが、タルムードの元になっている。これに、ミシュナへの註解と付加のようなかたちで加えられたものをバライタとゲマラという。バライタは「削除」の意味でミシュナ編纂のとき削除されたものをいい、ゲマラとは「完成した」という意味である。
 さらにメギラ(巻物)が入る。この場合のメギラとは「敷衍、補遺」(ふえん、ほい)の意味。またさらにトセフタ「欄外」が加えられる。いわば、欄外に書き込まれた部分であり、こうしてタルムードが完成したのは、五世紀から七世紀にかけてのこととされている。
 日本のように外来文化を中心とした国では、この行き方は少々奇妙にみえる。しかしあくまでも自国文化を中心にこれを発展させた民族の行き方は、みなこのようなかたちになる。前にこのことを中国の専門家に話したところ、中国人の生き方も、これにきわめて似ているといわれた。
 すなわち、孔子への註解があると、次にその註解への註解が出て、さらにまたその註解が出るというかたちで発展していき、それによってその古典がそれぞれの時代にも現代にも生きている、という。

(太字はわたしの意図による加工)
わたしはいままで、「日本は外来文化を中心としている」ことに気づいていませんでした。謙虚さが美徳であることのデメリットによって、偉い人にはつっこまない文化が封建的なノリで定着したのだと思っていました。
ヨーガ・スートラにせよハタ・ヨーガ・プラディ・ピカー(以後H.P.)にせよ、註解(コメンタリー)をした有名な人というのがある程度「この人のものがエースですよね」と決まっている。ヨーガ・スートラだったらヴィヤーサのとヴァーチャスパティミシラのが二大注解で、H.P.には「Jyotsna」という有名な書がある。
古書の解釈には紆余曲折があって、「この部分はウパニシャッドのここに呼応している⇒よってこの立場のこの主張を揶揄している」という関連付けをしたりする。エースとして扱われていない註解者の説にピンポイントで有力なものがあったりもする。




いろいろなことがこんな具合で、教義というのは編まれた網のような感じなのだけど、日本のみなさんは「決めつけてほしい」マインドが強いのか




 有力な説はひとつではない




という状況になると「え? ○○じゃないんですか? じゃあどれがホンモノですか?」となって、思考を続けることを終わらせたくなってしまう人にたまに出会う。質問を受けたときに、もし回答するなら少なくとも二説はインプットしておきたい、とこちらが思っていても「決めつけた答えをひとつください」というスタンスで持ち時間1分というときに来られたりすると、「わか〜んにゃ〜い。どこかの頭のいい先生に聞いてぇ〜」と言いたくなる。有名な先生の直弟子だった人が「ホンモノ」「本格的」という言葉を使えば使うほど、その人の学びのスタンスがカルト信仰的なものであったことが証明されていくのと同じ構造。



でもこれ、よく考えたら学びにしろ思想にしろ、これまで「三蔵法師が訳してくれたのを遣唐使が持ってきてくれた!」とか「マッカーサーさんが決めてくれた!」っていう歴史の中でいまがあるので、そうなるわなとも思う。仕事の場面の表現に「指示待ち族」なんて言葉があったりするけど、学んだり深めたりする以前に「重ねる」というコミュニケーションの文化がない。重ねると、相手に逆らっているように見えるからなのかな。とにかく、文化にせよ学問にせよ「もらうもの(でき上がったものを足す)」という感覚だ。インド思想はこの方法じゃ無理なんだなということに気づけたのは、アーサナと平行して哲学の勉強をしていたからだと思う。(いま座学クラスを「アーサナクラス受講経験者のみ」を対象にしているのも、同じ理由です)



この「学びの問題」はけっこう根深いし、わたし自身にもある(あった)ことがわかっている。気づくきっかけは本人の中にあるので、いくらわたしが「その思考癖、やばいよ」と主張しても、ひっかからないものはひっかからない。そこで最近は「重ねる」コミュニケーションのトレーニング方法をあれこれ思案中なのだけど、こういうのはとても文章化しにくいです。
山本七平さんのすごさはこれを文章にできてしまうところ。なんとなく目にしたら、なんでもいいので読んでみて。おすすめよ。