これは1913年12月12日の講演。青空文庫(ネット)で読めます。「こころ」の朝日新聞での連載が1914年(大正3年)4月20日から始まっているのですが、この講演はある意味「漱石本人による "こころ" の意図解説がされている」という見かたもできそう。親鸞と乃木大将が話題に登場します。
このテキストを読んでいると、こころに登場する「先生」の遺書を書いた中の人「漱石」の遺言をきいたような、ややこしいのですがそんな気分になります。そして、とにかく語り口がいい。竹中直人の芸に「笑いながら怒る人」というのがあるけど、漱石の講演の冒頭は「ボヤきながらつかむ人」という風情。
こんな下らない事を言って時間ばかり経って御迷惑でありましょうが、実は時間を潰すために、そういう事を言うのであります。大した問題もありませんから。
母校だとちょっぴりサディスチックになるグルジ。
(先日観た絵画がつまらなくていかんという感想の後)
感想はそれだけですがね。それについてそれをフィロソフィーにしよう――それをまあこじつけてフィロソフィーにして演説の体裁にしようというのです。どういう風にこじつけるかが問題であります。
ボヤキからこの展開!
そして本題に入る前の、この入り口の設定のしかたが周到。
私はこうやって人間全体の代表者として立っていると同時に自分自身を代表して立っている。貴方がたでもなければ彼方がたでもない、私は一個の夏目漱石というものを代表している。この時私はゼネラルなものじゃない、スペシァルなものである。私は私を代表している、私以外の者は一人も代表しておらない。親も代表しておらなければ、子も代表しておらない、夫子自身を代表している。否夫子自身である。
至高のプルシャ宣言。以後はクリシュナの言葉だと思って聞くべし。というくらいの宣言。たまらん……
流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちから赴くのです。
「赴く」って、上品だなぁ。
さて。中盤からは、こころの「K」、最後にはこころの「先生」の設定の種明かしのような話が出てきます。
古臭い例を引くようでありますが、坊さんというものは肉食妻帯をしない主義であります。それを真宗の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢のある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。言葉を換えて言えば親鸞は非常なインデペンデントの人といわなければならぬ。あれだけのことをするには初めからチャンとした、シッカリした根柢がある。
真宗の家に生まれ、「精進」という言葉を多用したKについて、グルジはかなり批判的な設定でいたのではないかと思う。いまでいう中二病。わたしの予測ね。
のちに、こんな言葉もある。
インデペンデントの人というものは、恕すべく或時は貴むべきものであるかも知れないけれども、その代りインデペンデントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけならば、徒(いたずら)にインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけで、成功はとても出来ないからである。
グルジは、中途半端な独立(インデペンデント)と中途半端な模倣(イミテーター)を痛烈に批判していたのではないかな、と思えてくる。前者が誰で後者が誰かは、小説を読んだ人ならわかりますね。
以下は、びべたんの説明とよく似ていると思いました。
人間にはこの二通りの人がある。というと、片方と片方は紅白見たように別れているように見えますが、一人の人がこの両面を有っているということが一番適切である。人間には二種の何とかがあるということを能くいうものですが、それは大変間違いだ。そうすると片方は片方だけの性格しか具えていないようになる。議論する人はそういう風になるから、あとがどうも事実から出発していない議論に陥ってしまう。とにかく二通りの人間があるということを言うが、これはこの両面を持っているというのが、これが本統(ほんとう)の事でしょう。
「本統」という綴りにも現れていますが、コインの表だけしかコインと認めないということはできない、ということ。
ちなみに、びべたんバージョン。
無知な人びとを励まし向上させる、たいそう善い動機力です。しかしちょっと考えれば、そんなことは明らかに不可能だ、ということがよく分かるでしょう。善と悪とは同じコインの表と裏だというのに、どうしてそんなことがあり得ましょう。どうして、同時に悪を得ることなしに善を得ることなどができますでしょうか。完全というのはどういう意味ですか。完全な生活、という言葉自体が矛盾です。生存それ自体が、われわれ自身と外界の一切物との不断の闘争の、一つの現れです。
(「カルマ・ヨーガ」135ページ【無執着は、完全な自己滅却である】より)
この「模倣と独立」が受講者ヤングに向けるメッセージの明るさは、150年後のわたしたちへの「立ち上がれ! 目覚めよ!」という思いでもあると思う。
インデペンデントになるのは宜いけれども、それには深い背景を持ったインデペンデントとならなければ成功は出来ない。成功という意味はそう言う意味でいっている。
インスタントな自己啓発書ではなく、わしの本を読みなさい! というメッセージかな(笑)。
なんてかっこいいんだ。
(このテキストには「それから」以降の小説の背景になっているコメントが多く見られる気がしますので、漱石の小説をほぼコンプリートしている人にもおすすめです)
紙の本は、「漱石文明論集」というのに収録されています。
▼Kindleはこちら