インド思想のそれぞれの教派の説を読みながら、いまは仏教の異端さを少し理解できてきたかなというところなのですが、同時に浮き出てくる疑問が「日本の仏教があまりにもインドっぽくない」こと。これはそのまま、日本人の考え方にどう染められたかをあらわしていて、この本ではその種明かしがされています。
記憶というのは不思議なもので、ひっかかったものはずっと粉のようにどこかに沈んでいて、反応すべき磁力が近づいてくると浮き上がってきます。この「日本の仏教があまりにもインドっぽくないこと」を思うときに頭に浮かぶ映像は、大河ドラマの「平清盛」です。源平の戦いは、設定としては身内を殺し合うのでバガヴァッド・ギーターに似ているのですが、葛藤の根幹が違う。国家構造の違いでここまで人は真理や教えを曲げられるのかという、日本の歴史の疑問が溶解しました。
わたしは日本の和の精神はすばらしいと思うのですが、同時に同調圧力になるこの力のありさまが、いつも気になっています。
正直という徳は、日本人の道徳的気質によく合ったものであるらしい。それはおそらく、日本人が、人間と人間との関係を重視して、閉鎖的な人間結合組織を形成することを愛好し、それに所属する人人のあいだではたがいに全面的信頼を要求する傾向が強いので、このような道徳的自覚があらわれたのであろう。(P341)
この本では、この「道徳的自覚」が日本の宗教観の歴史とともに紐解かれていきます。
以下、いくつか日頃感じてきたテーマを添えつつ、引用紹介します。赤の太字はわたしが勝手に感じている分類テーマです。
神仏習合、したけれど。
仏教の場合には、天皇崇拝と結びつくことは、理論的に困難であるにもかかわらず、日本ではついにその結合をなしとげてしまった。(P260)
やっぱり仏教を受け入れたことはすごいのだけど、そのまま入れてるわけじゃない。(コメントで続けます)
平安時代までの仏教教団が、世俗的な勢力にすっかり汚辱されてしまったということは、当時の仏教教団の大組織がもともと民衆の宗教的・精神的な燃えるような要求にもとづいて成立したのではなくて、皇室および貴族の要求に基づき、その庇護のもとに発展した結果として、むしろあたりまえのことであったのかもしれない。(P350)
「庇護のもと」って、文字で読むだけだと出資してもらってるイメージだったのだけど、ドラマを見たらそんなレベルではなかったことがよくわかった。
日本の一般民衆が歓迎したのは、民衆の宗教としてある程度まで民衆のシャーマニズム的傾向と妥協していたところの大乗仏教であった。仏教享受にあったってまず気づく現象は、当時の出家者のうちで尼僧の数が相対的に多いということである。(P457)
それまで巫女が中心だったから、ということだそうです。現代でも、男女がともに働く日本の企業で女性が管理職に進出する場面って、こういう要素で選ばれているのではないかな。
主君に対する絶対的献身の態度は、日本の歴史を通じて日本人の倫理思想の根本的なものとしてはたらいている。われわれが源平二氏の抗争をみても、両家の配下にある武士たちのあいだには、相互にいかなる憎しみの念も存在しない。かれら武士をたがいに戦わせたものは、かならずしも利害の衝突のみでもなく、信仰の相違でもない。とくに主君に対する絶対献身の態度が、かれらを相互に戦わせているのである。もちろんその奥底には経済人的な利害関係が作用していたということは、十分に考えられるが、少なくとも表面に掲げられていたものは、主従の結びつきであった。(P170)
憎しみの念がなかったかはわからないけど、「どっちが主君に仕えているか度」で争うなかであそこまでいくのは、ほんとうに不思議。
この本では、インド仏教の原義がどのように曲げられていったかを、日本語の構造からその思惟傾向として紐解いていくものがたくさんあって、そこだけでもう日本の宝といいたい考察ばかりです。
わたしはヨガをする場面で見える「自身と講師との関係や設定が示されていないと、身体を動かす以前にそもそも話を聞く段階にすら進めない人が多い」ということの背景をずっと「お金」や「カルトへの恐怖」だと思っていたのですが、あるときからそうではないことに気がつきました。
上下関係が示されないと動けない
仏教の社会的実践の基本的徳目は、ひとになにものかを「与える」(dana)ということである。それは、物質的な財であろうとも、あるいは勤労による奉仕であろうとも、他人のためになるものを与えることである。これをシナ人は「布施」と訳した。<これは「しきほどこす」という意味である。>ところが、日本ではちょうどこれに相当する訳語を見いだすことができなかった。「与える」「ほどこす」といえば、身分の上の者が下の者に与えることを連想する。反対に「ささげる」「たてまつる」といえば、反対の場合を連想する。dana(与える)という行為を、階位的身分関係をはなれて表象することは、日本人にはできなかったのである。また同じく仏教の根本観念である anukampa(慈愍)も日本語に忠実に訳すとが困難である。「あわれみ」という訳語がもっとも原義に近いであろうが、しかしそれは、上位の者が下位の者に恵みをかけてやるという感じを与える。しかし原義はじつは「<他人に>したがってふるえること」「共感」にほかならない。このように仏教の実践の根本概念が、日本語の階位的性格のゆえに、日本語のうちこ忠実に訳しかえることが困難なことがある。(P164)
日本人のドネーション感覚のなさはインドのヨガ観光地へ行くと際立ってよくわかったりしますが、その背景が言語でわかる。関係が示されないとアクションが判断できない。夏目漱石が「草枕」で表現しようとした「憐れ(あはれ)」は、この仏教原義に近いほうですね。関係が見えないと心が動かないというのは、日本病という気がするほどです。
西洋の哲学思想がさかんに行なわれるようになった今日においても、使用される語彙は、多くは漢語の二字ずつを適当に構成して、西洋の伝統的概念にあてはめたものである。概念は conception, Begriff の、理性は reason, Vernunft の訳である。ときには三字あるいは四字をもって構成することもある。純粋の和語はついに哲学的概念を表示するものとはなりえなかった。
これについて次のような見解がいちおう成立するかもしれない。すなわち、日本人がようやく哲学的思惟に進もうとしたときに、たまたま外国の哲学思想の来訪を受けたために、日本語の哲学的訓練の機会を失い、ついに今日にいたるまで、和語から哲学的概念を形成することができなかったのである、と。しかしながら、ドイツ民族の場合には、中世においてはラテン語によって僧侶たちが哲学的思索を行なっていたのに、近世になると、ついに純粋のドイツ語をもってする哲学体系を完成した。(P371)
佐保田先生のヨーガ・スートラの訳を読んでいると、ほんとうにここをコネコネすることに苦心しているのがよくわかります。わたしは今はもう英語の感覚を半分入れながら読んでいける言語感覚の時代だと思っているので、そっちの方法で読むことをおすすめしたい。
日本は、カルマ・ヨーガを理解しやすい風土の国
インドのような酷熱多雨、肥沃な風土においては、無為に放任しておいてもおのずからある程度の農作物が得られるから、そこには生産面における道徳よりも分配面の道徳が強調される。だから布施がとくに重視される。ところが日本のような風土においては生産が重視され、各職業における勤労の道徳が強調される。(P310)
ここはうなりました。四季がめぐるため一神教になりにくいのといっしょで、風土の影響は大きい。
世俗的生活のうちに宗教的意義を認めるという思惟傾向は、日本の技芸をも、宗教的に意義づけて把捉しようとする。こういうわけで、日本では茶道・華道・書道・画道・武道・剣道・柔道・弓道・医道などという呼称が成立した。その起源は近世のことであるらしい。このような呼称に類するものは、西洋では成立しなかった。この点ではインド人のあいだで芸術論や技術論が宗教的基礎づけをともなって展開されているのと類似している。しかしインド人にあっては芸術は解脱への道と解される傾きがあったが、日本人は、けっきょく同じことをめざしているのではあるが、「解脱」ということばは使わない。(P320)
関係が示されないと動けないのに、ベスト・キッド的なプロセスは受け入れられる日本人の謎が解けましたねぇ。
活動主義の倫理説を唱え、消極的静寂主義の思想を喜ばなかったのは、日本儒教のひとつの大きな特色である。もっとも日本的色彩に富む学者は、宋学の理気二元論をとらないで、気一元論の立場にたっている。山鹿素行も、伊藤仁斎も、貝原益軒もみな唯気論者である。そして日本儒教のひとつの特色は、政治・経済・法律など、日常の人間生活に直接関係のある実際的方向に力を注いだことである。日本の儒教は、哲学・形而上学の問題についての思索という点では、とうていシナ民族におよばなかったが、応用的・実際的方面では非常にすぐれていた。
このように儒学の形容形態に認められる日本的思惟の特性は、ちょうど仏教の受容形態に認められるそれにまさしく対応しているのである。
そうじて近代において東洋が一般に停滞的であったのに、ひとり日本のみが相対的意義における先進性をもつにいたった理由のひとつは、ここに指摘したような社会生活における行為的活動の強調の傾向にもどつくと考えられる。(P323)
日本でのヨガの伝わりかたにも多分にある活動主義。わたしがよく「タマス=悪者=やっつけろ」じゃないよと言いたくなるのは、この感じがあまり非ヨガ的なとき。ヨガをはじめてここ数年に至るまでの、2012年くらいまでのわたしはこういう影響下にどっぷりいたと思う。
「みんなそう思ってる」という、目に見えていない同調を信じる力
有限にして特殊なる人間結合組織を絶対視する傾向は、おのずから普遍的なる人間の理法を無視する傾向にはしりやすい。すなわち、いかなるとき、いかなる所においても人間の尊守すべき法の存することを無視して、自己の所属する人間結合組織の現在の状況にとって好適であるか不適であるかということが、そのまま善悪決定の基準になってしまうのである。(P92)
この力はいままで思考停止しているのだと思っていたけど、もはや「血を浄化する」くらいの気持ちで取り組んでいかなければならないものみたい。
個別的な事実あるいは特殊な様相にのみ注視する思惟方法は、やがて普遍の裏づけを見失うこととなるために、ついに無理論の立場或いは反理論の立場に陥ることになる。そうして合理主義的思惟を蔑視して、無統制な主観主義や行動主義に帰投するようになる。過去の日本の過誤はここに起因していたのであり、今後はもはやそのような過ちを犯すことはないであろうが、しかし普遍的なものを見失っているという恐れは、依然として存在する。今後われわれは特殊的な「事」を通して普遍的な「理」を見いだすということをめざさなければならないだろう。(P102)
これはわたしも最近まで(今もあると思う)強い傾向として持っていて、油断するとそうなる。ひとりで考えることがいつもいいとは限らないので、「読書会」のような方法が有効だと思う。
器用だけど近視眼的
日本人は模倣が巧みであって、独創が下手であるといわれている。それは外来文化を原理的・構造的に理解しないで、実践的にもっとも身近な面だけを、てっとりばやく摂取することにほかならない。過去の日本文化を見ていても、いかに模倣にみちていたことか。
いま仏教の場合についてみても、日本の学者はしばしば日本仏教の独創性を主張している。しかしそれは、だいたいにおいて、日本の仏教が大陸の仏教を単純化して把捉しやすからしめたことにほかならないのであって、それを原理的・構造的に理解して批判しなおした点は少ないようである。(P427)
特徴をとらえて単純化して日本テイストで味付けするのがうまいというのは器用なことでもあるのだけど、質問されて「そういうことになっている」という解答だと「ばかなの?」ということになってしまう。まあその解答でOKなムードもいい意味でゆるいところなんだけど。
ようやく西洋文明に接触するにいたってはじめて、福沢諭吉は『東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於いて数理学と、無形に於いて独立心と此二点である』という。かれのいう「数理学」とは、近世の数学的物理学のことであるらしい。このような特徴は日本のみにはかぎらないが、過去において客観的自然界の秩序を合理的に把握しようとする精神の欠如が、このような特徴をあらわしているのであろうと考えられる。(P452)
「なるようにしかならない」まではいけても、「さて」というあとの体力がない。それがお人よしの成分にもなっている気がします。
わたしは日本には日本独特の「いいユルさ」というのがあると思っていて、会話の中にある呪術力みたいなものは、伝わればすごい力だと思う。外国語の人には伝えようがない。イタリアのオペラもそうだとイタリア人ヨギが言っていた。
今となっては世界はつながってしまったので、そういうときはこの弱み(上下関係を示されないと動けないとか、目に見えていない同調を信じてしまうとか)を認識しつつ動けるようになるとよいと思う。英語は、話せることが目的というよりは、話せても言いたいことがなければそれまでなので、やはりその言語観を身体に沁みこませて日本語的な思考との違いが変換できればよいという意味で、普通にある程度話せたほうがよいと思う。
わたしは「情報を自分の力で認識できるか」という知力は、言語の構造ごと理解しようとするかにかかっていると思っています。なんでも池上さんが整理してくれれば助かるけどそういうわけにもいかないので、少しずつでも「日本人な思惟方法」や「甘えの構造」、「日本教の仕組み」に興味をもって、自身を縛るものの正体について話せる場が増えていくといいなぁと思います。(ネット上ではやめたほうがいいからね)
ふだんあまりこういう本を読まない人が選集のほうは読了するのが大変かもしれないけれど、普及版のほうなら読めるんじゃないかな。おすすめです。
春秋社
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