うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「目的がないから動けない」のではない

ヴェーダーンタ・サーラ」という15世紀の教典は、サーンキヤもヨーガも取り込めるものは取り込んでいる、かなりおもしろいものなのですが、これを読んでいると夏目漱石の「こころ」の分解描写におののきます。えええまたそっちに持ってくのー? って、もう飽きたよと言われそうですが、「こころ」はヴェーダーンタの実例の宝庫というか、もはや倉庫。



ヴェーダーンタ・サーラには「三昧って、味わってもすぐまた汚れちゃう」という感じがかなりわかりやすく書かれてます。「また汚れちゃう」のは、気持ちがどんよりしたり、気が散ったり、飽きたり、瞑想の結果の印象を盛って気持ちよくなっちゃったり(←超現代版うちこ訳なので怒らないでね)というような種類があると書かれています。
その部分のはじまりは、こうです。

<222>構成部分を具えた「分別をもたない三昧」に、昏迷と散乱と汚濁と耽溺と称する四種の障礙が生じる。

「分別をもたない三昧」というのを、余計なイメージのない純・三昧というふうに解釈して、以下の「四種の障礙」を読むとおもしろいです。
ヨーガ・スートラにも同じようなことは書かれているのですが、こっちのほうがなんかおもしろい。

<223>まず「昏迷」とは不可分の実体(=ブラフマン)に依拠しないために心作用の眠ることである。
<224>「散乱」とは、不可分の実体に依拠しないために心作用が他のものに依拠することである。
<225>「汚濁」とは、たとえ昏迷と散乱が起こらなくても、貪などの潜在的印象(習気)によって心作用が麻痺硬直し、そのために不可分の実体に依拠しないことである。
226>「耽溺」とは不可分の実体に依拠しないでも、心作用が分別(主客対立)ある歓喜に惑溺することである。あるいは三昧の始まるときに分別(主客対立)ある歓喜を味わうことである。
<227>心がこの四種の障礙を離れて、風ない場所に立つ灯火のごとく、不動となるがゆえに、ただ不可分の純粋精神のみとしてとどまっているときに、これが「分別(主客対立)をもたない三昧」と呼ばれる。

「昏迷」は、tamas性のやる気のなさというか、そういう感じです。
「散乱」は、「そわそわ」とか「じっとしてられない」ってやつですが、あとで書きます。
「汚濁」は、考え方の癖(記憶によって引き起こされる)ですね。vasanaに近いものでしょう。
「耽溺」は、目の前に光が広がって、そんなの見ちゃって特別体験〜 という、西洋人のかたが好む方面かと思います。玄奘三蔵さんはこれを「愛味」と訳したと注釈にあるのもちょっとおもしろいです。




このなかの「散乱」を、夏目漱石は「こころ」という小説の中に登場させています。
この「じっとしていられない」というこころの機能の描写がたまらない!

(第一部 十三 より)

「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いてきたじゃありませんか」

この場面での先生の「目的物がないから動くのです」というところで「あなたはパタンジャリですか」とまたツッコんでしまった。




「目的がないから動けない」のではない。人間はそんなに上等にできていない。「動けない」のはむしろ「昏迷」なんですよね。
「動いてしまう」にも二種類あるようです。音楽にあわせて身体も躍ってしまう直前のこころの動きと、この「目的物がないから動く」の動き。依存症や中毒は、だいたいこの隙間に入り込んでくる。



ヨーガ的には、「こころ」といっても、大分類だけで3つあります。

  • 感情に近いcitta
  • 意識に近いmanas
  • 精神に近いatman


小説もドラマも基本的に感情を描くものが多いから citta>manas>atman なんですが、夏目漱石の「こころ」はcittaをそのまま描写する場面が少ない。そのぶん、行動と会話のなかに manas がてんこ盛りです。そして、「私→先生」「私→奥さん」「先生→K」のこころを推論する描写の中に atman がいっぱい。身近な人の中に、神を見ている。なので、「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」となる(参考)。
精神的な向上心をわざわざアピールせずにいられる「私」を見て、「先生→私」の視点でこころに発現していたものは、なんだろう。
精神的な向上心をわざわざアピールせずにいられる「先生」を見て、「K→先生」の視点でこころに発現していたものは、なんだろう。



  <A>
  明るいものを見ると、惹かれて近づきたくなる。
  精神が惹かれているときに、感情もつられて、意識もなりゆきでそっちいへいく。



  <B>
  明るいものを見ると、そのまぶしさが痛くて、攻撃したくなる。
  精神がゆっくり反応するまえに、感情が脊椎反射する。
  感情が勝ってしまったので、間にいた意識は感情を正当化する側につく。
  精神は出遅れちゃっただけなのだが、これに引っ張られる。


  


嫌な経験の記憶の量が増えるほど、考えすぎるごとに、こころのはたらきがAからBに向かうからこそ、「精神的な向上心」なんて話をしなければいけなくなる。でもね、ヨーガ的にはBのときでも精神をワルモノにしなくていいの。「精神的な向上」なんて大義名分は要りません。
夏目漱石は、Aの描き方もBの描き方もすごいのですが、Aは「草枕」で、Bは「こころ」でたくさん観じることができます。
読む瞑想。おすすめよ。


ヴェーダーンタ・サーラの部分はこの本から引用しました。