本屋で見つけて、帰りにイッキ読みしてしまいました。この著者さんの記事は読んだことがありましたが、著作を読むのは初めて。
経験に裏打ちされた話に読みどころが多く、何年経ってもなくならない幻想をぷちぷちと丁寧に紐解いてくれます。初めて知った話、あぁそんなことあったなぁという話、今年の直近の実例、いろいろあるなか「うわー、ここまでやる人いるんだ」というのがやはり印象に残ります。選挙の前に出た本ですが、選挙とネットに詳しい人物との会話エピソードの中に、その予測と思えるような記述もありました。
この本全体にある警告は
「人は、自分にとって都合の良い情報ばかり信じるものだ。」という前提を忘れるな。
ということ。
インド思想の心理学に「人は10人に誉められても、1人に悪いことを言われたら、誉められた10はすぐに忘れてしまう生き物」というのがあって、ネット上のコミュニケーションはそれを何倍にも膨らませた状態であるなぁ、と思いながらウォッチしていたのですが、それをさらに分解すると「都合の良いことだけ信じたい」ということなんだよなぁ。
第3章「一般人の勝者は1人だけ」の「中毒者はお得意様」というトピックに、こんな記述がありました。
「同士」の存在は心地よい。そしてますます「中毒者」の中毒は深刻化する。
その結果、ネットでは自分の周囲に自分と似た意見を集めてはそれを常識だと吹聴する傾向が強まり続けている。
わたしは「ふいちょう」って口語をいままでほとんど耳にすることがなかったのだけど、ここ数年でtwitterやFacebookをやる人が増えてから聞くようになりました。ネットでそういう人が多いことが可視化されてから、その言葉が口語で日常に降りてきた感じです。いままでは口の前で手をグーパーして、「あの人はコレだから(拡声器みたいな形)」という、オバチャンぽいジェスチャーのほうが身近だった。
「ふいちょう」って音に慣れていなかったころは、漢字が口から出てきた感じがしたものだけど、いまはよく聞くようになりました。テレビのニュースで聞く回数が増えたせいもあるかな。
同様の指摘なのだけど、この記述にうなずく。(第8章 困った人たちはどこにいる より)
ネットがあるから多様な意見を知ることになった、という主張は嘘である。特に、自らフォローしたい相手を選べるツイッターは、心地よい情報だけを入れることが可能になった。だからそうして、彼らは、マスコミの偏向報道の歴史や、在日韓国人にまつわる噂やらを信じ、確証バイアスを強めていく。
全体で起こった現象として、ネットによって本心がナマナマしく可視化されたけど、同時に多様性を認めにくい社会であることも可視化されちゃった。よって、多様な意見は知ってないかもね、と。ネットの美点を強く唱える人は、それなりに自分で考えることができる人で、「世の中には頭のいい人がいるもんだなぁ」という喜びを感じた記憶で語っているんじゃないかな。
ステマに関する記述の章もおもしろかったです。
「成分に詳しすぎる芸能人」で指摘されているステマのエピソードに、ブログのランク付けとステマエントリーの値段の話があったのですが、わたしもネットの広告料金に詳しい時期に同じようなものを見たことがありました。「この金額で書いちゃう芸能人」が可視化されるのはエグいのだけど、紙媒体に比べたら圧倒的に効率がよいし、ウェブの記事広告と比べても格段にいい。っていうか、よすぎる。
よすぎるからこそ、ちゃんと相場を決めてあげて〜 と思ったりします。PVは低くてもコンバージョンのいい人は確実にいるから。
この本の中でいちばん共感したのは、経験談の中に何気なく出てくるこのフレーズでした。
家族や同僚は大事にしないくせに、なぜかソーシャル上の付き合いは大事にする人をたくさん見てきた。
「フェイスブックの浅い世界」のなかで再び引用される「ジャズ喫茶理論」の流れは、読んでいてスカッとしました。終章「本当にそのコミュニケーション、必要なのか?」は、ソーシャルメディアに疲れている人、ウェブ業界特有のコミュニケーションに疲れた人におすすめ。元気になれるよ。
この本を読んでいる間に、昔のフジカラーのCMを思い出しました。
「美しい人はより美しく。そうでない方は、それなりに写ります」
「それなりの美しさ」の機微を追求したり共感したりできる場所があるのは、素敵なことだと思います(ネット礼賛)。
「それなり以上のもの」を求める人が、これからなにを繰り出してくるかをウォッチするのはいささか悪趣味ですが、わたしはそれも楽しんでいます。
この本おもしろいよぉ〜。