うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シノドス新書 荻上チキ対談集1(Kindle版)


平日に毎晩TBSラジオで22時から番組をやっているパーソナリティの荻上チキさんがすごくいい。二元論に陥らない方法をとにかく模索しまくるスタンスがいい。あと、声もいい。しかも彼、まだ30代前半なんですよ。ときどき笑いのトーンに「じじいではない」世代感があって、そこもいい。
そんなわけで、Kindle本を買ってみました。ご本人が編集長を務める「SYNODOS -シノドス-」という電子マガジンの内容をまとめた新書。対談集だけど、対談の形をとった新書のような体裁。各発言が長いまとまりで編集されています。
「就職」ではなく「就社」になっている雇用の議論の薄っぺらい点にも切り込んでいたりするので、20代・30代の人におすすめ。40代以上でも「バブル時代のノリをひきずりたそうなあの感じは、ムードで戦争した時代の思考停止と変わんないよね」と思っている人には興味深く読めるでしょう。


そんなわたしは、この畠山さんという人の発言にうなりました。

<第6章 畠山勝太×荻上チキ 本当に必要な教育政策とは? / 教育と開発の倫理 より>
(畠山勝太氏の発言部分)
 道徳をインストールすれば物事が一発解決すると思っている人ってまだけっこう日本にいて、僕は驚きです。複数の要因に一つずつ手当していくことが、大きな世界平和とか不幸が減る社会に迫る近道なのかなとは思います。

ヨガにもこういうことってありませんか? ヨガをしているから健康にいいことしてる、チャリティヨガに参加したから社会にいいことした、という気持ち。ときどきはあってもいいと思うのですが、これがデフォルトになってくると「道徳をインストールして、はい、おしまい」にしている感じがするんです。わたしはこういう違和感からなるべく逃げないというのをテーマにしているので、二元論に陥らない方法をとにかく模索する人のコメントを見ると、とても励みになる。


引用を続けます。

<第1章 シノドス編集部×荻上チキ 社会をアップデートするために僕らができること / 「心でっかち」はもうやめよう より>
荻上チキ氏の発言部分)
 環境の改善やプランの内容といった大切な話を吟味することなく、すべて当事者の意識の問題にしてしまう。「『凛として』いじめをなくそう」だとか「『一丸となって』いじめをなくそう」だとか、何か装飾語をつけるだけで議論した気になってしまうものです。どんな修飾語をつけたいのか、その好みやレパートリーの違いだけで争われても、問題は解決しない。
 あらゆる社会問題を議論する場面で、「心でっかち」な思考が顔を出します。そうした議論こそが、問題解決のための敵です。

修飾語の好みやレパートリーの違いだけで増えているヨガに対して、あれはホンモノだとかニセモノだとかいう「心でっかち」にうんざりしているわたしは、ここを読んですっきりしたよぉ。ぶっちゃけ、人の発言に対してあれはラージャ・ヨーガだとかカルマ・ヨーガだとかの分類だけを発言する人にも、同じことを感じています。「わたしは違いを理解しています」というアピールのあとが薄っぺらいと、ガッカリが倍増するだけだし。



第2章 津田大介×荻上チキ ネットメディアと政治議論 / ジャーナリズムとマネタイズ より>
荻上チキ氏の発言部分)
固定客を抱える分、「信者とお布施」のようになった結果、言論にバイアスがかかりやすくならないように、"Don't be evil" 的なフィロソフィーが不可欠だとも思います。スポンサーシップの問題でいえば、企業でなくとも、「騒ぐユーザー」に引っ張られてイエロージャーナリズム化することもありうるし、実際、僕から見るとそのように見えるネット媒体、ネットジャーナリストは少なくない。炎上マーケティングという言葉もありますが、やっぱり「煽れば響く」という事実による誘惑みたいなものに負けているなと強く感じます。

ここもいいなぁと思いました。とくに前半。固定客の存在も新規客の増加も、濃すぎたり急激すぎたりすれば当然ゆがみが発生する。そこを熟知してドライブできる人じゃないと、まともな運用ができないんですよね。コミュニティサイトの継続策に「古参の客にとっては気持ちが悪いであろうことも、ちゃんとやる」という判断が欠かせないように。



<第4章 熊谷晋一郎×荻上チキ 誰のための「障害者総合支援法」 / 「社会性の障害」 より>
(熊谷晋一郎氏の発言部分)
 障害学という分野では、障害を、インペアメントとディスアビリティの二つの次元にわけて論じています。インペアメントとは、固体側の特性としての障害という捉え方で、ディスアビリティは、個人と社会の間の齟齬によって生じる困難や不利益のことです。この考え方のもとで自閉症に関する記述を検討すると、社会性の障害という言葉を、ディスアビリティを記述したものとみなすのであれば問題ないのですが、インペアメントとみなしてしまう場合には問題が生じます。
 なぜなら、「社会性の障害」が個人化されてしまった場合、極論すれば社会が一部の個人を排除する方向に変化して、その結果社会との齟齬が生じている場合でも、その原因を「あの人に社会性の障害があったからだ」と記述することに医学的な正当性を与えてしまうことになるからです。

山本七平さんのような視点です。「医学的な正当性」にぶら下がりたい人が実はものすごく多いことが可視化されてしまった後だからこそ、この視点は重要ですね。



むずかしそう、と思う人はまずはラジオをおすすめしたいわぁ。
あと、このコメントにも激しくうなずいたので、添えておきます。



▼この本は紙の本では出ていないので、Kindle版です。

シノドス新書 荻上チキ対談集1
株式会社シノドス (2013-04-04)
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