うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ソーシャルメディア進化論 武田隆 著

前半でインターネットと心の歴史をゆっくりと紐解いたあと、『「心あたたまる関係」と「お金儲け」を両立させることは可能か』という課題への取り組みがまとめられています。
著者さんのパーソナリティが隠さず押し出されていて、実践と瞑想の繰り返しが綴られたような構成です。前半は「ファミコン世代のわくわくインターネットエッセイ」といった風情で、同世代のわたしはインターネットにウキッとした頃のことを思い出しました。ときめいては裏切られ、また「あたたかさ」を求めて場が開拓される。この繰り返しなんですよね。


インターネット以前に、アウトプットされたもの=メディアはすでに、いろいろなものを可視化していました。可視化自体が新しかったわけじゃない。価値観、思想、経験、人脈、いずれもそれがより速くナマナマしく共有されることで、「このリアリティがありがたい」という価値に光があたる。
いまは、「あのネットの口コミがやらせだったなんて!」と、テレビのニュースになります。この本にも事例が紹介されていますが、過去にもこういうことはあった。でも、テレビで取り扱われるほどのニュースにはならなかった。繋がることだけでありがたい時代はもうとっくに終わっていたのかぁ、と感じました。そのくらい、利用者の求める「ホンネの純度水準」が上がってる。この先、どうなるのでしょう。


この本には未来予知の明言はないのだけど(そんなこと、誰にもできない)、ひとつ示された「夢の持ちかた、理想予想図」のような言葉があって、それはとてもあたたかいものでした。


何箇所か、印象に残ったところをページの順に引用紹介します。

<31ページ 消費者レビューの力 より>
 インターネットには賛否両論さまざまなレビューがあふれ返っているので、読めば読むほど逆に購入の決定を迷ってしまうこともある。消費者はレビューを選別して読むようになり、自分が信じられるな物語、むしろ信じたいと思う物語を探し、気持ちの落としどころを見つけ、商品をその物語ごと購入する。(中略)購買をほぼ決意していても、「念のため、レビューを確認しておこう」という一手が、いまの消費者の購買行動には組み込まれている。

このブログは本のタイトルの検索をきっかけに訪れる人が多いのだけど、「探しに来た人のストーリーと重なったかな」と想像すると、ワクワクします。逆の楽しみ方ね。

<69ページ インターネットが育った時代 より>
 システム世界は瞬く間にグローバルに広がり、あらゆる領域に浸透していった。倒すべき相手が、世界的なレベルで、人間のすべての領域を無意識的に支配するものであるならば、それに対抗する運動も、あらゆる領域を視野に入れた、思想、文化、政治、経済のすべてをひっくり返すような、オルタナティブを示すべきものであったことは必然といえる。カウンターカルチャーが、反戦運動公民権運動から始まって、ウーマンリブ、ドラッグカルチャー、フリースピーチ、ヒッピーカルチャーなど、キーワードだけが先行し中核観念が語りきれず、一見脈絡がないような印象を受けるのは、カウンターカルチャーが倒そうとした相手もまた「見えないもの」だったからのように思われる。

見えないからこそ、知りたい。わたしはよくここでドラッグカルチャー、ヒッピーカルチャーとヨガの関係に触れるけど、いまのソーシャルメディアにもまったく同じようなことを感じる。みんな、「自分のこと」が知りたいんだよね。

<124ページ マイノリティ以前の孤独 より>
私たちの社会には、まだまだ無数に私的なもの、あるいはタブーとされる問題がそれぞれの孤独の裏に隠されている。ハンナ・アーレントはこのことを「マイノリティ以前の孤独」と呼んで警笛を鳴らす。
 このような孤独はマイノリティが抱える孤独よりも深刻であるという。というのも、マイノリティは自らがマイノリティであることが確認されていて、同じような境遇の仲間がほかにいることを知っている。だが、そのような仲間の確認も許されないような孤独は、マイノリティが持つ怒りや悲しみよりも痛切なものとなる。アーレントはこのような孤独を抱える人々の本質的な問題は、他者に自分のことを聞いてもらうという機会、すなわち対話の喪失にあると指摘している。

つながりやすい便利さが孤独を解消するというのは、本当かな。と思うことが多いのだけど、半透明のつながりだからこそ発言できることもある。「寄り添う」ということが場で表現できるかな。それは「いいね!」ではなくて「わかります」とか、そいういうことなんだろうな。

<126ページ 価値観と関係構築のソーシャルメディアの問題 より>
 何をもって「公的なもの」とするかは、何を「私的なもの」とするかによって決まる。

「あれだけ個人情報がどうのこうのといっていた人たちが、これはアリなのかぁ」という現象や、「公人」の範囲がおそろしく広がっている昨今、この短い一文に深く唸りました。

<318ページ 未来へ向けて より>
 近い将来、私たちは個でありながら、全体をとらえる視界を持ちえるかもしれない。いままでつながりは、見えないものだから信じることができなかった。しかし、ネットワークに参加する行為の蓄積が、参加者それぞれのネットワーク知覚のレベルを高めていくことで、ネットワークの存在が見えるようになる。私たちはその先に、個々の人々が全体を配慮した行動をとり、利他的にふるまうということが、実は自分のために返ってくるのだという視界を手に入れることができるかもしれない。

そうきたかぁ、と思った。わたしは、インターネットがもたらすものは「見えないものが信じられなくなること」であると思っていた。この明るい提示を目にして、「メディア」と「コミュニケーションの場」の両立について、自分は少し近視眼的であったかもしれない、と思った。



この本のなかには、仏教的なコメントが随所に見られます。ほどよく閉じたバランスで生まれるあたたかさについても語られています。深さと広さ、両方を掘り下げたうえで、明るい未来が語られる。
マーケッターの人だけでなく、最近インターネットにわくわくしてないな、と思う人におすすめの、ちょっぴり哲学的なソーシャルメディア研究本です。

ソーシャルメディア進化論
武田隆
ダイヤモンド社
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