うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アルコール依存性に関する12章 自立へステップ・バイ・ステップ 斎藤学 編

アルコール依存症者の家族向けにおすすめの本として、病院の資料で推薦されていた一冊。とても励みになるだけでなく、人間の心の動きについての記述は、すべての依存性にあてはまることが書かれています。


以下の箇所を読んで、自分にはまったくどれも当てはまらない人なんて、いるのだろうか。

<68ページ どうしてあんなに飲んだのだろう! 酔いにおぼれる心の動き より>
アルコール依存症者は、必要にかられて飲酒をくり返しているわけです。決して意志の問題ではありません。
それでは、お酒をやめれば、このような心の問題はどうなるのでしょうか。しらふのアルコール依存症者に特徴的な対人関係のとり方のクセのようなものがあります。それらは、「がんばり」「つっぱり」「高望み」「わりきり」ほれこみ」というようなものです。


(1)がんばりタイプ
しらふになって沈みこんだ気持ちになる抑うつ感や空虚感を否認しようとするところから生じる過剰適応的態度です。(中略)休みを返上したり残業をしたりして仕事に打ち込みます。しらふのアルコール依存症者は、仕事中毒ともいえます。


(2)つっぱりタイプ
(出だし略)
「自分のことは自分でカタをつけるから口を出さないでくれ」というかたくなな態度です。自分の弱さを自分で見まいとし、認めないようにします。そのため、周囲の人に対しても、上手に弱さを見せたり甘えたりすることができず、つっぱることになるのです。


(3)高望みタイプ
(出だし略)
しらふの自分のみじめさを認めたくないので、「本当は自分はもっとすごいことができるはずだ。こんなはずではない」と幻想します。
(以後略)


(4)わりきりタイプ
強迫的な二者択一的態度です。つまり、何事に対しても白か黒か、善玉か悪玉かに分けて考えてしまう、中庸がないのです。
(以後略)


(5)ほれこみタイプ
「わりきり」タイプでまっ白と感じた人がなりがちです。相手がすべてにおいて良い人というふうにとらえて、傾倒していきます。ところが、ひとたびその人の中に黒い部分を見ると、とたんにその人がまっ黒になってしまい、拒否的で攻撃的な態度に転じることになってしまいます。(以後略)

わたしは上記のなかに、まったく経験も想像もつかない感情はひとつもない。
実際、断酒中のアルコール依存症者と接していると、「ああいまこれだな」と思うものがこの中にあります。同時に、この病気と関わっていくのがしんどいと感じている自分自身が、それはさておき暮らしているとき(ってそれが生活の95%以上ですが)、上記のどれかの方法でバランスをとっている。なのでごくごく普通に、「明日は我が身」と感じます。
もし恨むのであれば、依存「物質」を恨むしかない。でもその楽しみを開発したのは、同じ人間なんですね。
例は正しくないだろうけど、電子レンジが発明されたら、中に猫を入れちゃう人が居ないとは限らないような。用法の理解が使用者に委ねられている、ただそれだけのことで、状況を恨んでもしょうがない。
日常には、明らかに中庸がない方向(上記の4)へ誘導される材料が増えていて、メディアは依存症者量産システムになっている。これは各自が気をつけていくしかない昔からあるトラップだけど、現象の問題というよりは、徳の積み方の意識の問題かなと思う。


<25ページ どうして断酒しなければいけないの?  薬物依存の不可逆性 節酒の不可能性 より>
脳に刻みこまれた記憶を消すことはできないので、生涯、人並みの酒飲みには戻ることはできません。したがって、生きのびるためには、断酒しか残された道はないわけです。

samskaraもvasanaも消えないので、ただ瞑想するしかありません。ってのと同じ話なんですね。記憶による脳内のおしゃべりをやめさせるしか道がない。


<33ページ どうすれば断酒を続けられるの? 治療の3本柱 より>
頼りにならない意志などというものは、あてにしないで、目にみえる、手でふれることのできる武器を持つべきです。これが治療の三本柱、抗酒剤と通院と自助団体参加です。これを実行することによってはじめて、酒と対等に戦えるようになります。

本人が認めるまでが、ここまで行くのが大変なんだよ、って話なんですけどね。


<41ページ どうすれば断酒を続けられるの? 治療の3本柱 より>
(断酒会やAAに参加することで)
大事なことは「足を使う」ことで、あまり頭を使って考える必要はないのです。「こんな集会に来て、いったい何の意味があるのだろう」とか、「今忙しいのにこんなことやっていられない」とか、「昨日はいい話がきけたが、今日はつまらなかった」とか、そういう評価的で分析的な頭の働きというのは、この際あまり意味がありません。

ヨガの実践と似てる。プライドの高い人が、断酒会に参加するまでの道のりが長いところも似てる。


<61ページ どうしてあんなに飲んだのだろう! 酔いにおぼれる心の動き より>
では、このような「酔い」とは一体どんなことなのでしょうか。
酔っているときは、自分の感情がしらふのとき以上にオーバーに感じられるものです。ですから、楽しいことも悲しいことも、より以上に楽しく、より以上に悲しく感じます。また、自分が実際以上に力があるというようにも感じます。そして、非常に自己中心的な感覚になります。
そうした中で、自分と他人との境界があいまいになって、見知らぬ人にもすぐに意気投合したりします。これらの「自己拡大」「万能感」「自己中心性」といわれるものは、乳幼児的な感覚なのです。つまり「酔い」は、心理的には子供返りをした状態といえます。
この、「酔いとは子供返りである」ということが、人が酔いを求めていく心理の鍵です。人がお酒に溺れていく、アルコールに依存していくときには、必ず酔いの心理状態を快く覚えているわけです。

ソーシャルメディアも似た構造に見えます。「知人の知人とはいえ他人ですが」という感覚がまるで「クローズドな人」であるかのような雰囲気は大勢での飲み会に似ている。日常を派手な写真とともに頻繁に投稿する人にも同じものを感じる。
ソーシャルメディア依存は、お酒と違って暴力や借金につながらない。という点で社会貢献度は高いのかもしれない。



この続きで語られる、「アルコール依存症者の心理を理解する上で大切なこと」は、ほんとうに大切だと思いました。

しらふの人間関係では、不安やむなしい感情を常に経験することになります。ところが、人は常にこうした不安やむなしさを抱いて生活を続けることはできません。そこで、自分を裏切り傷つける外界の現実や、自分自身の現実を、意識から除外して見ないようにしようとします。このような心の働きを「否認」といい、アルコール依存症者の心理を理解するときに、とても大事な鍵になります。
こうして現実を否認し続けていくことが、アルコール依存症者が酒をやめる必要をなかなか自分に認めない、ということになるのです。同時に、自分が不安やむなしさ、生きづらさを感じていることを否認しようとする態度が、アルコール依存症者に特徴的な、がんばりやつっぱりの態度となって表れてくるのです。

ここが、近くにいる人がもっとも腹が立つところなんですね。でも「これは人としてあたりまえの防衛本能なんです」と、わたしはこの本のほかに病院で受けたレクチャーでも聞きました。そして自分にもそれがあることをわかっているつもりです。
でも、でも、「なんで俺が病院へ行くんだ」「話をして帰ってくるだけなんだから、もうそろそろ行かなくていいだろう」というのを時間をおいて日をおいて何度も聞くと、やっぱり腹立がつんですよ。ほんと。ハリセン作ろうかと思うくらいです。


<64ページ どうしてあんなに飲んだのだろう! 酔いにおぼれる心の動き より>
実は、自立=依存葛藤というのは、程度の差はあってもすべての人間が持っているといえます。ですから、体質と環境が許せば、誰でもアルコール依存におちいることはありうるわけです。人生の中でのある種の状況によって、卒業していたように見えていた自立=依存葛藤が、コントロールできないほどの大きな傷口を再びあけてしまう、ということもあります。そのようなきっかけとなる状況には、さまざまなことがありますが、そのときの感情には「見捨てられ感情」という特徴的な共通の感情が働いています。
この「見捨てられ感情」は、不安、淋しさ、怒り、怖れなどのいろいろな感情のまざりあったものです。普通、「見捨てられ感情」
は一歳半から三歳までの自立を課題とする時期に経験し、克服していくものです。

そのためには、子供を育てる人の心がよくないといけない。野口先生が子育ての場面に整体をもっていったのは、こういうことなんだろうな。


<138ページ 職場復帰と地域社会復帰 アルコール依存症からの回復とは 人間関係の回復 より>
飲んでいたときの典型的な考え方をいくつか挙げてみます。一度思いたったら、もう後戻りはできずにただ無我夢中になってつっ走るだけ。物事は白と黒しかなく、灰色で我慢しなければならない状況になると、ただ不安で落ち着きがなくなってしまう。完全主義で原則至上主義で、極めて高い自我理想をかかげている。頑固で融通がきかない反面、強い者にはいたって弱く、権威主義的な傾向がある。他人に対しては、過剰なほど気を回し、自己卑下的な態度をとるが、何か事があると他罰的になる、などなど。

頑固で権威主義のところだけ、「インドにはお酒を飲ませない宗教があってホントよかったよね」と思いながら読みました(笑)。最後の「他人に対しては〜」は、日本国内でいま量産されているマインドのように感じます。


<164ページ 《仲間》を鏡として 自助グループの理解 より>
世阿弥の有名な教訓、「初心忘れるべからず」は、しばしば通俗的に誤解されているように、初心の頃のまじめな覚悟や情熱を忘れるなという道徳的な教えではなく、むしろ、初心の芸がいかに醜悪であったか、その古い記憶を現在の美を意識するために肝に銘ぜよという忠告なのどえある、ということだそうです(山崎正和世阿弥』日本の名著10)。

初心者の参加によって、経験者がそこに舞い戻らないようにするためのブレーキになることもあるそうです。そうだよねー。そうだそうだ。今日は成人式だったね。



ふつうは縁がなければ読まない本ですが、お医者さんは「恋愛も構造は同じ」と言っていたので、なにかに依存している危険を感じたことがある人は「明日は我が身」という気持ちで読めると思います。