本屋さんで目にして以来、ずっと気になっていた本。きっとヨガっぽい話なんだろうなと思っていたら、ヨガの話がたくさん出てきました。乳がんの闘病記なのだけど、全般、他人との距離のおきかたにすごく共感する。仕事仲間、友人知人、親、配偶者、医師、ほかの患者など、闘病生活を通じて関わっていく人々に対して感じたことが客観的な文章で書かれていて、「あぁ、たぶんわたしでもそうする」と思うことが多く引き込まれました。
医療の場面の描写も「こういう人が多いから、こういうシステムになっているようだ。今後もこうなっていくだろう」というトーンで、「こんなにわたしは大変な思いをしました」という思いがすごく抑制されている。だからこそ伝わってくるものが強くて、闘病記として読まなくてもこのブログの読者さんには沁みるものが多いと思います。
読んでいく中に、学生時代に宗教学を少しかじっていたというようなくだりがありました。闘病記であっても演歌調、フォークソング調にならないこの著者さん独特の安定感は、せっぱつまった場面で降ってくることばへのヒキの目線があるからでしょう。ああこの人は、「絆」は「支配」の半面(反面ではなく)を知っている人だ……。と思いながら読みました。
それはつまり、ちょっとオーバーなのだが、自分の身体が唯一無二の特別な存在なのではなく、他の大勢の人間と同じ炭素だの水素だのの、構成要素で組成されたモノにすぎないということに気付かされ、ある程度受け入れられたということなのかもしれない。
普段つい忘れがちなことだ。
(56ページ『とにかく慣れろ、慣れすしかない入院手術生活』より)
これは序盤で出てくる言葉なのだけど、
最後のほうに
「四度の手術で私が得たこと、それは人間は所詮肉の塊であるという感覚だろうか。」
「私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。」
(いずれも220ページ「そして現在」より)
と語られているところがあります。まるでヨガのスワミの本を読んでいるようでした。
かといって、けっしておかしな傾倒のしかたはしない。病棟でのエピソードもこのようなトーンで語られます。
で、彼女たちが話しているのを聞くともなしに聞くと、語尾にかならずといっていいほど「ありがたいことよね」をつけている。死への恐怖を反転させて今生存していることに対してものすごくポジティブになっていると思われる。おそらく進行度がずっと深刻なのだろう。口にせずにはいられないのかもしれない。彼女たちの気持ちを正確に理解することは同じ病気であっても本当に難しい。
(67ページ『女の敵は女? 婦人科病棟ブルース』より)
このあとに「格別な感慨も特にない。生きているだけでありがたいと思うには、これまでの生活に疲れ果てていた。」という言葉が続きます。
こういうスタンスは24時間テレビみたいなのが好きな人には「なげやり」に見えてしまうかもしれないけれど、外側から見た人生はさておき、さまざまなことを自分で選択して主体的に生きてきた人ほど、自然にこういう言葉が出てくるものだと思う。
配偶者に養ってほしいと泣きついたことはない、愚痴をまき散らしながらも仕事を諦める気はまったくなかった。まだできる、まだできると思っていた。もう無理だから養ってほしいと言っても良かったのだと、今すこし思う。
しかしあのときもし休んでいたら、そのままぽっきり折れて、現在このように締め切りをいくつもいただける生活に戻ってこられたかどうかだとも思う。どちらが良かったのかは、死ぬまでわからないだろう。
(94ページ『不快が一杯! 痒くて痛くて暑くてうるさい』より)
決断も回想もとても主体的。誰かを悪者にしようとしないスタンスが、この本が多くの人に読まれた理由だろう。(悪者をうまくいっぱいこしらえて演出した方が売れるのだろうけど、そういうのはテレビのほうが向いているなぁ)
年配患者には本当に執刀医を崇拝する方が多い。いやもちろん私とて執刀医の先生には本当に感謝しているし、信頼も寄せている。が、崇拝はしない。治療方針には納得したいし、質問や疑問はちゃんとぶつけたいから、ある程度対等に話ができる関係にしておきたいのだ。
(148ページ『煮えろ!! ゼンテキ決定前夜祭』より)
「人任せにして後悔する」ということの怖さを知っている人だ。
手術で胸の感覚がまるでなくなり、再建手術を決めたあたりに、こんな記述があった。
決定的に不幸、というほどではないけれど、これだけ落ち着かなく不快な気持ちのままで、生きる幸せを味わう精神的余裕はなかった。不幸だと思い詰める余裕も実はなかった。自分を自己暗示にかけるのにも時間とゆとりがある程度必要だ。
(189ページ『癌友がいく』より)
「自分を自己暗示にかけるのにも時間とゆとりがある程度必要」というくだりが沁みた。
バストラインが多少上すぎるとか、揺れないとか、細かく言えばいろいろあるけれど、それでも服を着ていてものすごく不自然ということはない。これは私にとっては大きい。落ち込む瞬間は少なければ少ないほうがいいに決まってる。解決しないものと向き合うのは不毛でしかない。人生ごまかしが大切なのだ。
(215ページ『失われた「自然」を求めて』より)
中途半端に自己暗示をかけて「ごまかし」をしなかったからこそ、ほんとうに必要なときに「ごまかし」という心のカードがきれるのだろう。
孤独や悲しみを知っている人の持つ「地味な明るさ」が全体にほのかな灯をともしていて、わたしはこのトーンが好き。
この本にはヨガのことがたくさん書かれていて、パリヴリッタ・パールシュヴァコナーサナでガクガクしているイラストもある。
そんな著者さんが、ドロップインのヨガクラスを選ぶ理由に、こんな記述が。
自分も何回か製本のワークショップを主催しておいてなんなのだが、女が集まるお稽古事は、なにかと面倒くさい。なんなんなんなんともしがたい、謎の空気が醸成される。あれがとにかく嫌なのだ。集まった生徒同士の中で先生のお気に入りを称するボスができ、ボスの金魚のフンができ、先生の教えを護るという名目のもとに排他的な空気が生まれる。少々オーバーに書いたが、だいたい似たような空気が濃いか薄いかというだけだ。
先生としてはこういう空気をうまいこと利用して育てて弟子を増やしていくのだろうけど、私はそれがどうしてもできず、自分の持つワークショップを定期的な教室にすることはできなかったのだった。
(102ページ『絶不調、ほどけるように眠りたい」より)
すごく共感!(笑)。そして、わたしが最も気をつけていることでもある。ヨガ教室に対する感想にも、すごく客観的でおもしろい記述がたくさんありました。でもそこにフォーカスすると、この本の主題からはずれまくるので書きません。とにかくおもしろから、読んでみて!
「応援したくなる感じではない闘病本」というのは、こんなにも実用本になるのか。巻末の対談もすごくいい。はげしくおすすめです。