昨日は第一章と第二章の紹介でした。後半は第三章。
第三章は、自らの武術実践に対する考え方について書かれています。ヨガは武術ではないけれど、「身体との向き合い方」や「組織のありさま」「師弟関係」などの点で共通することがとても多いと感じる内容でした。とにかく、修行マーケットへの分析眼がすごい。
これまでさまざまな方の本を読んできましたが、この著者さんは「男の子っぽい」感じがします。頑固オヤジでもなくジゴロでもなく。探求パワーは男の子パワーなのかもしれません。オタクというのとも少し違う感じで、探求行動がとてもすてきです。
「前向きでありながらも、警告本」という良書は多いけれど、この著者さんのスタンスはものすごく骨があって、よくできたヨガ本とはまた違った味わい。文章にあまり色気がないので女子ウケは悪いかもしれないけど、その世界には引き込まれる強さがあります。
<199ページ 一人稽古のこと より>
武術の稽古とは、自分自身の何らかの問題解決のため、決して第一目的が何々道場や何々会のためではないはずである。組織繁栄への第一歩が、現武術、武道界においては、残念なことに、本質追求の放棄による一般迎合のように思われてならない。
そして、入門入会してきた初心者を導いて、ある程度動ける、または動けるような気持ちにさせるために、「上達のためのセット・メニュー」がつくられているように思われる。そして、それは当然のことながら、ファースト・フードの食品のような手軽さを持っており、多くの場合、軽いノルマによって味付けされ、そのノルマを果せば、自動的にうまくなってゆくような気分にさせられる仕掛けがほどこされている。
ヨガはビジネスとマーケットがかなり複雑になっていて、時代に合わせてチューニングをするのが常、のような感じになっている。TTCのような「上達のためのセット・メニュー」は、口コミの可視化でどんどんこなれたパッケージになっていくんだろうな。
<212ページ 一人稽古の実際 より>
私が時々、稽古に来る人達に「師匠や先輩は尊敬しても、憧れからは卒業するようにするべきだ。」と説くのは、この時期を越えていってもらいたいと思うからである。つまり、憧れというのは、自分とはまったく違うから生ずる感情であって、尊敬よりナマで感情的なだけに、稽古への強い原動力とはなるが、自分の成長と共に、消えるべき感情のように思うからである。憧れをいつまでも持ちつづける、ということは、自分の技の向上を、自分でフタしつづけていることになりかねない。
「憧れ」って、なぜか突然、「他者への嫉妬」になったりするんですよね。「自分とはまったく違うから生ずる感情」って、とても危険なものだと思います。
<233ページ 松聲館の "抜刀" 技法 より>
足の踏み方は、剣術と同じく、前足の爪先をやや外に向け、後足は前足と一線を踏む。爪先を外に向ける理由は、体に縒り(より・本文では手偏)をかけ、体の中心線を感知しやすくするためと、腰のキレを使うためである。この足の踏み方は、最も基本的な体の運動原則であり、体格による例外はまずないといっていい。したがって、もし爪先を内側に向けて踏む場合は、手足腰の使い方は、まったく別の体の運動体系によらねばならない。
膝のヌキは、刀を鞘から抜く直接的な原動力である。"体の開き" を生み出す重要な働きであるので、両足の間隔と、そのヌク時間差(膝を)と腰のキレ、肩の柔らかさの関連を十分研究する必要がある。
「爪先を外に向ける動作」が「体の中心線を感知しやすくする」「腰のキレを使う」というのはすごくよくわかる。ヨガの場合は「爪先を内に向ける動作」で「腹のヒキをショート・カット的に出そうとする」という動きがあって、一緒にアゴが出るんですけれども、もう「とりあえずなんとかしちゃいたい」的な動きというのがある。
たしかに爪先を開くと腰が締まる。武術の場合は、こういう仕組みを正すのではなく利用するんだなぁ。と思いながら興味深く読んみました。
<220ページ 全ての武術上達への糸口 "納刀法" より>
ある特別な機能を持った道具というものは、人間にとって「これを使いこなしたい。」という願望を起こさせる力があるもので、特に男にとって刃物は、やはり一種特別の魅力があるようだ。
(中略)
私は、ルービック・キューブが流行しはじめた時、すぐに、いま述べた体術との関連が思い浮かび、ますます剣術や抜刀術など、道具を使うことによって条件を限定する稽古法の重要さを強く実感したものである。
「男の子っぽい」と思うのはこういうところ。こういう話をおもしろい、といって聞ける女子は、恋の魔法が少しかかっている状態なのではないかな。女性は生き物として攻略要求・覇権欲・支配欲がやっぱり少ないと思うんです。
<235ページ 身体の調養のための左手抜刀 より>
身体の歪みは、身体自身がその歪みによって不健康になることを嫌って、「もう、そのような動きはしてくれるな。」という意思表示として、まず、技の向上にブレーキをかけるのである。(いわゆるスランプ、伸び悩みもこれが原因であることが多い。)それによって、身体自身としては、こうした動きに飽きて、この歪みの原因がなくなることを願うわけである。しかし、中には、向上心が異常に強かったり、身体自身が鈍感であったりすることにより、この注意信号を無視したり、見落としたりして、そのまま稽古を続けることがある。そうなると、もはや身体自身は、決定的に自覚症状が出るまで、その歪みをより大きくする方向にいってしまう。
現在、こうした事情により、身体を損っている人達は、専門家と呼ばれる人達のかなり多くを占めるのではないだろうか。これは、武術、武道界、およびスポーツ界の大きな問題である。なぜならば、それによる身体の鈍りは、感性の鈍りともなり、時に技の質的低迷のみならず、意識の低さの原因ともなるからである。
先日「心のマッスル・スピンドル」について書きましたが、ここに書いてあることと似ています。「つるつるのタイヤ」になってしまうプロセス。
<312ページ なぜ武術なのか より>
武術は明らかに "逆縁の出会い" という思い人間の業を背負っており、これから目を背け、「スポーツだ、スポーツだ」と言うことは、たとえば禅の宗教性を取り去り、ストレス解消の健康法の面だけを切り売りしているようなものであろう。
"逆縁の出会い" が自身に対して起こるのがヨガなのかな。なんてことを思った。
すごく鋭くて、でもしなやかで、スパッと斬られるこの感じ。
「感覚を鈍らせないために大切なこと」がたくさん書かれていました。