うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

歪みは、鰻のタレのようなもの

近ごろ「わたしも均整法の整体へ行ってきました」というヨガ仲間がいて、よく話題になります。
これから行こうと思っている人に、「整体へ行っても、またもとの状態に戻っちゃうんですよね」と聞かれました。
そこから「戻るというよりも、また自分なりの歪みで上書きする。鰻のタレみたいな感じですよ」という話になったのですが、わたしは整体にしてもヨガにしても「治る」とか「戻る」という感覚のものではないと思っています。
ヨガは、整体はこんなに健康にいいよと一生懸命言おうと思えば、「治る」とか、そういう言い方になるのでしょうけれども、そんな魔法はないわけで、やっぱり自分らしさとの付き合いかたとしての、チューニング方法のバリエーションです。
ヨガが癖をつくる、歪みを強めることもある。やり方次第です。



わたしは身体均整法と井本整体の両方で同じ指摘をされたことがあって、まえに「バンダ症候群」と書いたのですが、仙骨を立てることへの意識が日常になったときに「腰が落ちる」という癖をつくってしまいました。自然な腰のS字のカーブを歪ませてしまった。バックベンドが前よりもすんなりいかなくなった。
これも、続けてみての学びです。




だからといって、「間違った方向へ行ってしまった! 治さなきゃ」と焦ることはありません。なんというか、この過程を経てみて、そこへ意識を向けたら、人はそのような身体になるということがわかり、「濁りもまた、味わい」と思うようになりました。
「うちの秘伝のタレのうまみは、ここですよ」というような、キャラクター、性格、味わいです。



内臓は左右対称ではないから、「歪みのない」状態というのはそもそも不可能。そこでコンプリート願望を丸出しにすると、かえって疲れます。「ああいま、こうやって歪んでバランスをとっているんだな。ちょっとチューニングして、引き止めておこう」というくらいの気持ちがちょうどいい。
「ちょっと味にパンチがつきすぎて、長年の常連さんにはいいけれども、多くの人に鰻を提供していくには、行き過ぎの味付けかな……」といって薄めるような。そんなところが鰻のタレとよく似ています。



味付けの調整ですが、これが、整体の場合は人に試食してもらうような感じでやってもらえる。ありがたや。
ヨガは、自分で慎重にやる。自分でやる味付けの調整は、主観と客観のいったりきたり。
左右や前後、ねじりの動きで、あえてやりにくいほうを長めにやるとか、呼吸が浅くなるポイントでベクトル強度をそれ以上にせず、呼吸を深くしたり厚く(胸郭とかお腹のあたりの感覚です)したりということをしながら、ちょいちょい観ていく。
やりやすいほうは、「なんでこっちはやりやすいんだろう」ということを観察するのだけど、こっちのほうが要件が多く、観察は難しく感じます。でもここに、潜在意識の顕現が詰まってる。利き手利き足もあるけれど、日々のあれこれを受け止めて対処するところは内臓とも影響していて、心の面での攻略法と連動して無意識にやっていることがあらわれる。それがまた内臓へ返ってきてループする。
整体に内臓を整えるはたらきがあるのもうなずけます。


整体について学びながらヨガをすると、さらに楽しくなりますよ。