うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

武術を語る ― 身体を通しての学びの原点(前半) 甲野善紀 著

古本屋でなんとなく手にとってストックしていた本。空手をやってみたのをきっかけに武術について学びたい気分になったので読んでみたら、あけてびっくり。野口整体の考えに触れる記述がありました。
前半は武道についてのいろいろな教えや逸話がでてくきます。なかでも鹿島神流の国井道之師範、無影心月流の梅路見鸞老師、新体道の青木宏之師範、肥田式強健術肥田春充翁の話は引き込まれるエピソードで、無住心剣術(通称:夕雲流)の混乱も興味深かった。肥田春充翁は二木謙三氏とつながりの深い方だそうで、この時代の健康術史は掘れば掘るほどおもしろい。(参考ログ


序盤に梅路老師の教えるヤマ・ニヤマのようなものが著書「弓と禅」からの引用で紹介されていて、とにかくまずこれがズトンときました。はじめに紹介します。

<52ページ 梅路見鸞老師のこと より>
一、正雑二念の平衡を保つこと
二、筋肉を自然に動かすこと
三、弓箭を自然に働かすこと
四、上下前後左右、正等にして不動なること
五、停息なきこと
六、気縛なきこと
七、弓身一如たるべきこと

いきなりあげられる「正雑二念の平衡」。「雑念」のみを邪とすることの不自然さ。「理趣経」は、なにかを悪者にしてなにかを清浄だというのは不浄じゃないかい? という教えと思っているのだけど、「受け容れること=バランスすることを放棄しないこと」を説いているのだろうな。あれも不浄、これも不浄というよりは、あれもこれも愛。たぶん、きっと愛。がいい。

<37ページ 武術稽古研究会の設立 より>
 本来、何の道でもそうであろうが、そのことを、その道により、その法に沿って稽古、工夫をしていれば、その稽古法が的を得ている限り必ず、その人が強くなりたいとか、うまくなりたいとか、思わなくても上達してしまうものであるべきた。
 少し考えてみても、武道より現在、ずっと社会から本気で相手にされている技芸、音楽にせよ絵画にせよ、その世界では「あの人は、いい人だ。」「精神的に立派な人だ。」という言葉が、褒め言葉というより、慰め言葉になっていることが多いことを思うべきであろう。
 そのうえ、本来、自らの全存在がかかっている武術において、"精神性" が無関係であり得るはずはなく、それを強調することは、頭の上にさらに頭を載せる愚をおかしかねない。

鋭い切れ味です。あたりまえであってもなくてもいいようなことに、ことさらに光を当てようとする心理への指摘。

<41ページ 礼について より>
 丁寧な言葉、省略した切りっ放しの言葉、念の入った挨拶、ただの会釈、それらが応対する相手により、またその時々の場所により状況により、自由に出て、しかもそれによって相手がどのような反応を示そうとも、自在に対応できるようになったとしたら、その人は変化流動して定めようのない礼の表現の世界から、一歩奥に入った人間共通の応対の原理を摑んだのであり、それはそのまま "武術における応対" とひとつになっているだろう。

くずしや間合いが上手な人は、丁寧すぎて失礼なことなどがなく、安心してつきあえます。スマイル・バランスにも同じものを感じます。「ただいまわたくし、笑・顔・で・接・客・しております!」というのが接客であって応対ではない、突き放されたような、あの感じ。

<109ページ "逆縁の出会い" に気がついて より>
 人間にとって逆縁の出会い、それがなぜ存在するのか。このことに関して私が、多くの非難、反論をあえて覚悟のうえで言いたいことは次のようなことである。
「人間という、自分の手で環境を改変し、天災にも病気にも、生きのびるに有効な対抗措置をとることが出来る動物にとって、この人間という "種" をコントロールする天敵はもはやなく、そのために、人間自らが、その天敵の役目もしなければならなくなったのではないだろうか。
(中略)
この人間という "種" 自身の自己制御の働き、これが知能の進んだ動物に背負わされた "逆縁" という宿命的な関係を生んだのではないだろうか。」
 こう言うと、それでは戦争を肯定するのか、と問いつめられそうだ。たしかに、私は「とにかく戦争はいけない。」という考えには単純に賛成は出来ない。それは、この考え方は、人間にとって都合の悪い虫や生物は、農薬などで殺してしまえ、病気はその背景となる生活の歪みを正すことよりとにかくその症状をなくすのに効果的な治療法を開発すればいい、といった考え方と質的に同じようなものを感じるからである。

逆縁というカルマ。この「逆縁」という言葉がとても印象に残る本です。「いけない」というのはとってもむずかしい日本語なのだなと、最近つど思う。どこに「行けない」といっているのかな、と思ったりもする。

<141ページ "予測外し" と "予測誘導" より>
 人間というのは、よほど臍まがりな人でも、「少し緊張、少し不安」という心理状態となると、不思議と素直になるものである。この、「少し」というところが大事なところで、強い不安を与えると、たちまち「覚悟を決めたり、居直ったり」して、取扱いにくくなってしまう。そのような状態に相手がならないように、相手の予測をソフトに外し(もちろん時には、一気に外して極めてしまう時もあるが。)誘導して、相手を崩して、または封じるのが、"予測外し" "予測誘導" の理合である。

緊張やストレスが「しなやかな力」を導き出してくれることって、ありますね。対・人ではなく、対・自分自身の関係の中で、不安を殺さないようにすることって、実はとても大切なことなのではないかと思うこのごろです。

<146ページ なぜ潰し技か より>
(柔道が西洋に分析研究され、その神秘的技法神話が崩れた話の流れから展開する記述)
合気道は試合を行なわない武道であり(ごく一部の会派では、試合形式も取り入れているが。)ヨガや禅や太極拳などと共に、東洋神秘主義的捉えられ方もかなりされているので、柔道と同じようにはならないだろう。ただ、そのため、いい面でもあるが、問題点も多い。その最大の問題点は、精神性が強調されるあまり、「出来ねば無意味」という武術の原点がボケてしまい、生半可な精神論や "気の効用" をふりまわす人が非常に多くなってくることである。これは何といっても、武術にとっては致命的問題である。

わたしはいろいろなことに対して「継続は力なり」と思っているので、ヨガの場合はその「献身性」が強調されると長く続かないのではないかと思うことがあります。

<159ページ 松聲館の体術技法 より>
古人、先人を尊敬することは大切であるが、ただいたずらに神棚に祭り上げ、誰でも、ある程度のレベルに達すれば当然出来ることを神秘化することは、決していいことではないと思う。このような、いたずらな神秘化で、どれほど多くの人達が、その才能を発揮できないように呪縛されているかわからない。このことは、不遜のそしりを受けようとも、敢えて申し上げておきたいことである。

「いたずらな神秘化」を、したがる人がいるのか、されたがる人がいるのか、そこんとこがよくわからないという場面をよく見る。「神秘化」って、なんかヘンですよね。
わたしの感覚ではやっぱり、「この人ジゴロだわぁ」とか、「カリオストロのルパンだわぁ」とか、銀座のホステスさんの力のように捉えるほうが、しっくりいく。


武術って、とってもタオっぽい。「無為自然」の力について思うことの多い一冊です。(後半の感想はこちら