うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「友達の友達」と、心のマッスル・スピンドル

人の体には「マッスル・スピンドル(筋紡錘)」というはたらきがあります。
急な動きを体が強いられたときにはたらく防衛機能。ピキッ、と、なります。
「そんなことしたら、怪我をしそうだよ。その動きにはこたえられないよ」というはたらき。
経験上いちばん感覚的に理解しやすいのが「開脚前屈」だと思っていて、以前そのことを書きました。


この、とても原始的で愛すべき機能と付き合う秘訣が「呼吸」で、呼吸に乗せれば、少しずつ動き出せます。
本人が動いて呼吸に乗せる前から背中を押すようなことは、ヨガではタブーに近い。



「友達の友達」という人からのアプローチには、「マッスル・スピンドル」とまったく同じようなことが心のなかではたらきます。心も身体も同じです。
友達の友達という存在を「まだ友達じゃない人」と感じるか、「これから友達になりそうな人」と感じるか。



それはひとえに、「事前の申し送り度合い」によります。



「友達の友達さん」の存在が、申し送りのない「事前に知らない」状態で、「どうもどうも。わたし○○さんと友達なんですよ」と言われたら、「どうもどうも。共通の友人がいましたか。そうですかぁ」と言いながら「フレンドリー」というやつをやりますが、うちこはこの流れのとき、「これから友達になるかもしれない人」と、この時点では思えない。


事前に友達が言っていた「わたしの友達にこんな人がいるんだけどさ」という話を記憶していれば、ずいぶんちがう。
たぶんこれが、みんなにハッピーなアドバンテージ。コネクションが成り立つ流れ。


信じも疑いもしていないけれど、「私の友人とはどういう友達なのか」「友達なのか、知り合いなのか」「ただある日どこかで意気投合して、知人以上友達未満という状況で盛り上がっているのか」と確かめたくなるのがヨギの性分。
ここにあるグラデーションを「それはさておき」としたまま「どうもどうも」のできるオトナになるというのは、その分、感度が鈍るような気がする。確実に心の中で「ちいさなマッスル・スピンドル」を感じているから。この感覚を無視したら、プチっと内腿の筋が鳴るような怪我をしてしまいそう。(痛いし、回復にはかなり時間がかかる)


つながり情報なんてなくても、笑顔を向けられたら自然に感応して仲良くなっちゃうような、そっちのセンサー感度を磨いていこうと思う。