うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

はずみをつけない、調子をつけない。とはいえ待つしかない。その意識がやってくるまで

昨年秋に習い始めたボディ・ワークの稽古へ行って、今年の4月に「今日は先生がずいぶん丁寧に教えてくれるな…」と思っていたら、わたしは年に2回あるスタート期の途中から入っていたことに気がつきました。そんなこんなで今年の4月から準備運動を含めて教わったのですが、これがまぁ初心を思い出す発見の連続。「はずみをつけない」とか「顔だけ先に動かさない」などの注意を聞きながら、そして少し顔なじみになったみなさんの動きを見ながら、さまざまなことを思いました。
生徒として習いながら別の顔のわたしがヨガとの共通点を照合するような、そんな瞬間があるのです。帰りに歩きながら、ヨガの時間の中でのわたしの考えはふたつあるなと思いました。


  • はずみは、まぁつけちゃうと思う。呼吸との連動を感じられるようになるまでは。

先生が言っても言っても、はずみをつけるときにつける人はつける。わたしよりも長くやっている人でも、つけるときはつける。わたしは「頭が浅く早い呼吸を求めている」という状態が人にはあると思っていて、それはラクになるための鉱脈を一刻も早く見つけ出したくて情報を得たくてピッタが過剰なとき。ドーシャが整ってくれば呼吸に意識を向けることが効率のよいことであるとわかるけれど、目先のことを短期的にどうにかやっつけたい思考のときは、はずみをつけたい気持ちを抑えることはむずかしい。
これは、さまざまなことを漠然とでも広く浅く知りたい人には言っても早すぎることだったりするので、わたしはヨガのときにあまりしつこく言わないようにしています。目先のことをやることでひとまずなにかを忘れたいその人にとって、「はずみをつけない」はあまり重要ではないのかもしれなくて。エレガンスの習得が目標でない人には、そもそも響かない。あらゆる挙動はあらゆる場面から自分を救ってくれることがあるものだから、その契機にフタをするようなことをしないようにと考えています。(はずみをつけたら、意味がないんだ! と顔を真っ赤にするようなことがないように、というような意味です)


  • 調子は、呼吸と連動してかっこよくついていればよいと思う。

これは得意な神経回路をついつい使ってしまうという現象。すてきな動きは呼吸と連動していてケガにつながるような動きではないところが、ヨガのよくできているところ。水泳をしていた人のスワンダイブの動きを見て肺との連動っぷりに感動することがあります。手首も動くと見ようによっては調子をつけているように見えるけれど、内臓の動きとの連鎖がダイナミックさにつながっている。
「調子」についてはダサくてもよしとするかダサさから抜け出してやると意志を決めるか、エレガンスを理性として採用するかは個人の選択で、本人の目標次第。ひとまずそのアーサナをきめてみたい人には言っても聞こえないことだったりもする。わたしは自分自身に「ダサさから抜け出したい」という意志があるので自分の練習のときには気をつけるけれど、他の人間の動きを見てかっこいいな、とあこがれる感性はそれはそれでプリミティブな反応として尊いものと思っています。



練習しなくなると手首足首が硬くなって、ドタバタしてしまう。するとエレガンスが減ってしまう。わたしは小さいうえに顔がキリッとしていないので、動きが雑になるとコントのようになり社会の中で軽く見られてしまいます。そういう意味で、ヨガは社会の中での護身術のようなものかもしれません。
これだけで10年以上、飽きずに楽しめています。わたしは今日もヨガブームのさなかにいます。