うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

区別と差別とクラス意識

ただいま出張中。22時ごろホテルに着きました。久しぶりにお風呂に浸かってゆっくりできました。携帯電話からの更新です。

普段なにげなく感じたことをiPhoneのメモ帳にキーワードだけ残しているのですが、スリランカで感じたことと今日仕事で感じたこと、飛行機の中で読んだ本にあった話が繋がったので、ゆるゆると綴ってみます。


スリランカではインドでのそれに比べて「クラス格差」ががっつり普通にある、という感覚があまりなかった。職業カーストはあるのだけど、観光客がそれをまざまざと見せつけられる場面は少ない。


そのかわり、主に長くバカンスの地としてスリランカに馴染んできたヨーロッパ人らをメインターゲットに、「ツーリストプライス」への意識がはっきりしていて、区別の対象が「国内」ではなく「外国」へ向けられている。
そして実際にはその期待以上のレートでお金が動いていて、ビーチボーイやガイドで稼ごうとする人々の金銭感覚は完全にイカれていた。
ビーチでは葉物でラリッて目がおかしいティーンたちに出会ったし、この青年は60歳過ぎのブタみたいな金持ち西洋オバさんにも夜のご奉仕を即決業務でやるんだろうなぁ、とごく当たり前に感じるビーチボーイにも何度か出くわした。


うちこも定義的には金持ちオバさんのはずだったのだけど、「あの人たちとは話さないようにね」「ついていっちゃダメだよ」「ここまで高くとるのはツーリストプライスだよ」と、地元の大人たちに保護的な注意をされていました。なんせ学生扱いだったので。


インドでは物乞いとして生きている人を目の当たりにしていろいろ感じるのがよくある「はじめの衝撃的な印象」だと思うのだけど、彼らはスリランカの物乞いに比べてその額は圧倒的に低く、彼らの身の上での要求だ。
それに比べて、スリランカの物乞いはレートが高く、こちらの財布ベースで要求してくる。「ドネーション」の要求レートは10倍以上。もはや寄付とは名ばかり、という域で、寺院で「仏教恐えぇ」と思う場面にも二度出くわした。


そんななか、スリランカで一度、「お金はいらないよ」と言って、仏教寺院で高額ドネーションを要求されたときと同じ「祈り」を、ひとりのヒンドゥー教僧侶がやさしい笑顔で捧げてくれた。
それはとても複雑な気持ちになる出来事だった。



うちこは日本で働きながら、特にここ半年「クラス意識」について考えることが多くなった。
結論から言うと、「自分のものさしと随時バランスしながら、健康的な判断ができる範囲で洗脳されようと思っています」といったところだ。
先に事情を書いておくと、うちこは経歴が長いので、「上の者を呼べ」と言われたら、子どものような見た目でも引っ張り出される。「儀式」と捉えてしまうのではないかと思うようなイベントや会議に参加すると、呼吸が浅くなる。



「ああ今、いくつのエゴのつぼみがこの場で花開いただろう」と。



クラスの示された場面で特別な意識が培養される瞬間が、しんどい。
「いずれはみんなに提供されるべきことを、まずはあなたたちのクラスから」という支援の区分は、いつも「希望者」からにすればいいのに、と思う。お肉が好きな人が焼肉に誘われればいい。



リーダーシップというのは、まず「ひとりでも盛り上がれる」のが生命力的な技術で、「まぁ調整仕事が増えれば摩擦も増えるよね」というくらいの当たり前のメンテナンスとしてたまに油をさしてくれればいい。それがやさしさだ、というのが個人的な考えだ。
だから、周囲に評判のよくない「エラそう」というキャラの人を、うちこはあまり嫌いでなかったりする。そういう人は、「この会社ででは出世してもこんな優遇すらない」というような不満を言わないから。朝もちゃんと来るし。



今日は飛行機の中で「クレーマー」に関する本を読んでいて、そのなかに「リタメイト」という言葉が出てきて興味深かった。
リタイアした元管理職のシニアのクレーマーのことらしい。「あんたの身分は何だ」と平気で口にするような人で、昔部下に対してとっていたような態度を再現する場を買い物やサービスへのクレームに見いだしてしまった人。


うちこは、何度か遭遇したことがある。ITの歴史はまだまだ浅いから、上の者でもリタメイトさんのイメージに合わないキャラの人が多かったりして、わたしが出て行っても、「あんたは、社員か? バイトか?」となる。


日本はインドやスリランカに比べると、格差が見えにくい。見えにくいので、「自分に相応な対応」の第一ものさしとなる「あんたは誰」がクレーマーものさしに依存するバランスになってしまう。


クラス区分を示されないとつらい、というのは、恐ろしい現代病になるかもしれない。そしてクレームは当然の抗議ももちろんあるのだけど、火がついて燃えている瞬間は表現の自由も生産活動の自由も殺しまくっていく意気込みで燃え続ける。



スリランカでは、油断するとズボッとハマりそうな瓦礫ゴロゴロの道を、子どもたちが「ハロー」とよそ見してこちらに手を振って、楽しそうに通学していた。
もしそこで誰かが瓦礫にハマったら、さらに子どもたちは大爆笑だろう。「この状態、日本じゃありえないよね。PTAがほっとかないでしょ」と母が同時に同じことを考えていた。



クラス意識は、生命力を蝕むね。
バランスしなきゃ。



いくつかのことが、ここで繋がった。