うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

コミュニケーションとヴィパッサナー(「タントラへの道」より)

以前何度かにわたって紹介してきた「タントラへの道」の中から、感覚的にひもづけて咀嚼したことがあったので、今日はその部分を流れを作る形で紹介します。お題は「コミュニケーション」。
毎日行なっていることなのだけど、とくに去年から仕事で人と話す機会の質が変わってきたり、大勢の人の前で話す機会が増えてきたりしていた。この本を読んでいるころ、特に気になっていた事項だったので流れでとらえたメモがあったのだけど、いま読み直しても「まだ意識として自然な域まで染みついていない」と思うことばかり。
年末から「大勢の前で講義をするトレーニング ⇒ 実践」に短期集中的に取り組んだ過程で気づいた自分の意識や問題について、今こうしてこの引用を読み直すと「本なんて、読んでもまったく身につかない」ということに気づく。でもこの行ったり来たりの繰り返しがあるのとないのとではまた違うのだろう。

今日はページの順番どおりではない紹介のしかたになりますが、「意識」「他者とのコミュニケーション」「話すということ」が繋がってきます。途中でヴィパシュヤナ(ヴィパッサナ)について触れる箇所を挟みながらになるので、この分野に親しみのない人には専門用語的でわかりにくいかもしれませんが、なるべく前後の流れに絡んだ意図を沿えてコメントを入れます。
では、引用紹介いきます。

<204ページ 四つの貴い真理 より>
 茶碗にお茶を注ぐのなら、あなたは腕を伸ばし、急須を取り上げ、茶碗に傾ける ── これらをすべて意識しつつ行なう。茶は茶碗に触れ、やがてそれを満たす。するとあなたは注ぐのを止め、急須を正確にもとどおりに置く。日本の茶道のようにやるわけだ。私たちは精密なあやゆる動きに品位があることを知る。私たちはあらゆる動作を単純(シンプル)に精密にできることを長い間忘れていた。生活のあらゆる行為に単純さと精密さをもたせることができる。そうなれば、あらゆる行為が、測り知れな美と品位をそなえることができる。
 コミュニケーションの過程もまた、それを単純さ、精密さという視点から行えば、美しいものになりうる。話の途中に置かれる間はすべて句読点になる。話し、間を置き、また話しては間を置く。必ずしもていねいでまじめくさっている必要はない。私たちは品位と的確さをもって、ものごとを行うことができるはずだ。ただ間を置きさえすればいいのだ。コミュニケーションにおいて、間は言葉を話すことと同じように重要なものだ。相手に言葉と考えを微笑を一度に押しつけることはない。間を置き、微笑み、話し、また間を置き、話し、そして間、句読点とやればいいのだ。句読点のない手紙を想像してみるがいい。コミュニケーションはめちゃめちゃになる。間を置くことについて自意識過剰になったり、固くなることはない。ただその自然な流れを感じとることだ。

この本の著者のチョギャム トゥルンパ氏は日本の生け花や茶道にも親しんだ人で、会話の中のたとえに日本の作法が引用されることがあるのですが、「意識」についての説明で「句読点のない手紙」を重ねています。
「間」や「つなぎ」の心地よさが全体の印象を左右する。日常では「まず伝えたいことを自分のものにする」なんてことをいちいちしていたら疲れそうだけど、でも感覚的にこれをするかしないかがすごく重要。相手の意識、相手の領地の中でのスペースのとり方。以前「つぶやく人々について思うこと」という日記にも書いたことがある。
「美しいコミュニケーション」というのは、いますぐ課題にしたいテーマだ。「このへんでお茶を注ぐのを止める」ということと同じようにすると、あらゆる瞬間が尊くなりそうだ。
ヨガのアーサナで連続しまくるタイプのものは特に「間」や「つなぎ」を意識させてくれる。これは、自分の領地の中でそれをトレーニングして、外に出て行って生かしてなんぼ。外に出た瞬間にシャッターを閉めてしまう印象を受ける人をたまに見かけるのだけれど、早くシャッターを開けないともったいないと思う。

<219ページ 菩薩の道 より>
 先に私たちは、コミュニケーションのために間をもたすことについて話し合った。しかしそのような修行は非常にわざとらしく、自意識的なものだ。マハーヴィパシュヤナ瞑想の実践では、故意に間を置き、故意に待ちながら、自分がコミュニケートするのを見守るだけでなく、コミュニケートしてあとはただスペースアウトするのだ。あるがままにまかせてあとは気にしない。あるがままにあることを自分の所有物か、自分の創り出したものであるかのように考えないことだ。そうすれば目覚めた状態の自然な動きが湧き出してくる。

そこで、「わざとらしさ」についても指摘します。龍樹さんばりに「とことん」です。結果を求めようとする始まりについての指摘。「コミュニケートしてあとはただスペースアウトする」という説明がものすごく物理的で気に入ってしまった。「あるがまま」という日本語は、最近ではそれ自体があいまいな目的としてとらえられる表現と化しているので、「あとはただスペースアウト」といわれるほうがしっくりいく。
うちこはよく職場で、コミュニケーションの場の構成展開や切り替えがおかしいときに、「もうここからは相手が主役になるところ。あなたが『それでは歌っていただきましょう〜』とマイクを渡したあとの話。その歌がどうなろうが、案じてもしょうがないわけよ。でも歌っていただく前まではこっちでコントロールできるのだから、そのあとに『曲は、なになにです』とか、『今日も街でこれを口ずさむ人に出会いました』みたいにその前の装飾で工夫をしてください」というように、昔の歌番組司会の喩えを使う。
30代後半のOL仲間に「うちこさん、このシリアスな説教シーンで浜村淳のモノマネさりげなくいれれるのやめてください」と笑われたりするのですが(無意識にやってるみたい)、こういうことと本当に似ていると思う。
そういう意味で「徹子の部屋」というのは「ありえない間」で構成されていると思う。徹子ヨギのものすごい「愛」の量がなせる荒業か。



ここで、いったんヴィパッサナーを題材に説明がされている章を挟みます。

<217ページ 菩薩の道 より>
 これらの世界に取り組むためには、より広い視野から状況をながめることを始めなければならない。それがヴィパシュヤナ(パーリ語ではヴィパッサナ)瞑想法だ。ひとつの行為の緻密な細部だけではなく、状況を全体として意識するようにしなければならない。ヴィパシュヤナは空間、つまり緻密さの起こる周囲の<空気>を意識することに関わる瞑想だ。行為の緻密な細部を見ることができれば、その自意識自体がある空間を作り出すとも言える。小さな規模で状況を意識することが、より大きな規模での意識をもたらす。ここからパノラマ的な意識、マハーヴィパシュヤナが発達する。それは細部に意識を集中することよりも、むしろ全体のパターンを意識することだ。私たちは自分の幻想に浸ってしまうのではなく、そのパターンに目を向けはじめる。自分の投影による像と戦う必要はないこと、そして自分とその像を隔てている壁もまた自分が作りあげたものであることに気づく。エゴの実質がないという本性を洞察するものが、プラジュニャー(般若)=超越した知恵だ。プラジュニャーを垣間見るとき、私たちはリラックスする。エゴの存在を支える必要のないことを悟るからだ。
そして開かれた寛容な心を持つことができる。自分の投影による像に対処する別のやりかたを見つけることは私たちに大きな悦びをもたらす。これが菩薩の道、マハーヤーナの道、開かれた道、暖かみと開放の道にはいってゆくのだ。
 マハーヴィパシュヤナ瞑想では、自分と対象の間には大きく広がった空間がある。状況と自分の間の空間が意識される。その空間ではどのようなことも起こりうる。関係とか戦いとか呼ばれるべきものは、どこにも起こっていない。言いかえれば、私たちは自分の体験に、概念化された考えや名前や分類をむりやりあてはめるのではなく、あらゆる状況に空間の広がりを感じるのだ。このようにしてその意識は非常に緻密ですべてを包含するものとなる。

「小さな規模で状況を意識することが、より大きな規模での意識をもたらす」⇒全体のパターンを意識することにつながる。
というのは、うちこがヨガから学んだことのひとつだと思っている。よくカメラのズームやフォーカスに喩えたりするけれど、これに「いきなりとりかかるんだぁ。びっくり」と思ったのが阿字観瞑想で、「なるほど、ここから積んでいくのね」と思ったのがヨガであり、そのラベリング的な要素の出典に「ヴィパッサナ」という単語が出てくる。
いきなり「運だ、引き寄せだ、瞑想だ」という雑誌の構成と同じレールでここに入ってこようと思っても、無理じゃないかと思うくらい、継続の実践ベースのなにか(マラソンも写経も同じ)がないと感覚的に理解できないと思う。
そしてこの「瞬間」というやつは、いつも一瞬で上書きされてしまう。だからこそ「美しいコミュニケーション」という冒頭に引用した項目の課題の方がよっぽど意識の置き所としては正しいように思う。やってることは一緒なんで。



そしてここから、カルマ・ヨーガ(働きのヨーガ)の話です。

<271ページ 知恵と慈悲 より>
 瞑想の実践によって発展するこの暖かみは、瞑想の後に経験する意識の状態の中にまで延長される。そのようにものごとを本当に意識している状態では、自分と自分の行為を離婚させることはできない。それは不可能だ。例えばお茶を入れるといういうような日常的な行為の中で自分の動作に心を集中しながら、同時にその集中を意識していようとすることは夢想境に住むようなものだ。ある偉大なチベットの師が言ったように、「行為と意識を下手に結びつけようとすることは、水と油を混ぜようとするのと同じこと」なのだ。用心したり自分を保護しようとするのではなく、本当に覚めた意識が開かれなくてはならない、それは状況の中に開かれた空間を体験する開かれた心の状態だ。たとえ働いているときでも、その仕事という状況の中で覚めた意識を働かせることはできる。そのとき、仕事そのものが慈悲と瞑想の修行になるのだ。

大学を出たばかりの若い人たちと、自分はハイクラスだと思っている管理職の真ん中で仕事をしていると本当にいろいろ勉強になるのですが、「行為と意識を下手に結びつけようとしない」ということができる人というのが職種役職に関係なく、いる。そういう人には「割り切ってやってます」という意識もない。この「割り切ってやる」というのはいっけんサラリーマン力が高そうに見えるけれど、非常に厄介です。「割り切らないとできない」=「なにかを悪者にしないと取り組めない」ということだから。罪のない悪者を探し出されると面倒なので、上司はいちいち「適切な悪者」を用意するケアが必要になる。こっちのほうが大変だったりします。
よくうちこが「ベスト・キッド」という映画を絶賛する理由は、その教えの本質が「態度」にあるから。「Attitude!」と絶妙な場面でジャッキーが言うんですよ、また。
「理由など要らない態度で取り組めるか」というのが、働くこと(語源で「はた」=周囲 を「らく」=楽 にすること)だと思う。

「これだけじゃ食えないからこれもしています」という人がヨガ講師の人には多いと思うのだけど、たまに「会社員の頃、○○な生活に疑問を感じて(否定表現で)、ヨガの世界へ」などとプロフィールに書いている人がいて、普通に「サラリーマンを下に見ながら暮らしているのだろうか」と不思議に思う。美容師さんでもそうだけど、別の仕事をしていてその世界に入った人は、なんとなく会話のスタンスがオープンで居心地がよかったりする。ヨガの先生で素敵と思う人にも同じようなことを感じる。
何かを悪者にしないとヨガを始められなかった人からは、ヨガを習いたくないなぁ。

<上記引用のつづき>
 ふつう私たちの生活の中にはそのような意識が欠けている。私たちは自分のしていることに心を奪われてしまって、まわりにある他のことを忘れてしまう。あるいはまわりのことに封をしてしまう。
しかし慈悲と知恵の積極的な力は、広がりをもち、知的で鋭くすべてにゆきわたる。それは特定の行為やできごとだけでなく、環境全体を見わたすことのできる広い視野での人生観を私たちに与えてくれた。これは他の人々とコミュニケーションするときに正しい状況を創り出す。人々に対処するとき、私たちはただ相手が言っていることに注意を向けるだけでなく、その人柄からにじみ出るトーンの全体を受け入れなければならない。人々の言葉や微笑はそのコミュニケーションのほんの一片を表しているだけだ。その人からにじみ出る性質、自分を表現する方法などもそれと同じように重要なのだ。言葉だけが表わすよりもずっと多くのことをそれらは伝える。

「かけがえのないあなた」「そのままでいいんだよ」などのキャッチコピーが添えられた本を読むよりも、売れっ子ホステスさんの接客術を読んだ方がいいのは間違いない。読みまくっちゃおうかな(笑)。


昨年から仕事を通じて非常に多くの人の「エゴの顕現」を目の当たりにするようになって、クレーマー社会やクラス意識の弊害などなど、日々さまざまなテーマに取り組んでいるうちこなのですが、いつもその横にはヨガがあって、いろいろ教えてくれます。
ヨガ仲間からその意識の分解を助けてもらうことも多くて、「孤独耐性」を鍛えることも重要だと思うけど、同時に「オープン・コミュニケーション」も鍛えていかなければいけない技術。
後者を意識すると、毎週楽しみに見ている「笑点大喜利」の奥行きが全然違ってくるからおもしろい。(今日も見てたんですけどね)
楽しみながら学んで行きたいな。