札幌の古本屋さんで買ってきた本です。この内容の本が定価でも540円で買えてしまうすごさ。娯楽とか教材とかの意味がまったくわからなくなってくる。
この本の中で梅原教授がつぶやく「これだからわたしは密教に惹かれてしまうのだよ。その理由あれこれ」がたまらない。うちこが空海さんに惹かれて惹かれてしょうがない理由は書き出すときりがないのだけれど、梅原先生の説明は「きゅーん」とハートわし掴みどころかガシ掴みくらいの勢いで、たまらん内容でした。
この本は、「空海さんヲタ」「空海さんラブ」くらいでないと難しい内容だと思うので、できるだわかりやすくコメントを入れようと思います。自分なりに「空海さんは、きっとこんな人だったのだと思う」ということをよくイメージするので。端的に言うと「来る仕事来る仕事かなり引き受けた」というところが好きなところなのだけど、やっぱり空海さんという人はものすごいカルマヨガ思念の人だったのだと思うのです。
引用紹介はできるだけ旧漢字を探しましたが、どうにもないものは現代の常用漢字をあてます。
<14ページ 空海の二つの面 より>
このような仕事をするのは、まことに超人的な ── せめて大師の半分位の ── 知能の力を必要とするであろうが、そういう仕事をしても、なおかつ、それによって、弘法大師空海の姿が全面的に、われわれの前に、はっきり現れるかというと、それは疑問なのである。なぜなら、先に述べたように、彼は一人の宗教家なのである。宗教家は己の存在を著作の中にとじこめようという意志をもたないのである。己の宗教的信条を、彼は言葉によって伝えようとするけれど、彼は言葉によってのみそれを伝えるわけではない。本来、神の世界のことは言葉を超えたものであろう。
この言葉を超えたものをどのように人々に伝えるか、それには著作とともに儀式が必要であろう。密教の場合も同じことである。空海は密教の経典を借してくれという最澄の頼みに、密教は書物だけの知識ではだめで、行を師資伝達することが必要だといって断わった。
空海さんの残した著作はどれも、おそろしく「自分プレゼン度ゼロ」。わたしは解釈の器官なのだ、くらいのスタンス。そんでもって空海さん自身の自我との向き合いかたといえば「ひたすらに、やってます」という事実がミルクレープ状態のような印象。
最澄さんとの件については、これまで何度も本の紹介でのコメントで書いてきたけれど、直近の「性神風土記」の最後のコメントが本当に本当のホンネ解釈。
「最澄さんのこういうところを、空海さんは同じ男子僧侶として感じていたのではないかなと。だってこんな人に絶対に理趣経みせたくないもん。」
そういう意味で、わたしはこのエピソードで空海さんの「ヨギの意地と葛藤」を想像してみたりする。そして同じようなことが日常生活の中でもいっぱいあるから、また励みになる。「空海さんの理趣経の件に比べたら、ちっせーなぁ。誤解を恐れて出し惜しみするのではなく、誤解のない伝達技術を磨くんだよな」と。
<18ページ 日本のインテリにきらわれた空海 より>
加持祈�偃は近代科学を信じる近代日本人にとって、もっともいかがわしいものであった。加持祈�偃によって病気が治れば、近代医学は必要でなくなる。それは医学の未発達と、社会保障の貧しさが生んだ暗い迷信にすぎず、そういう迷信を信じ続けたこの日本を近代化しなければならぬ。
こういう考えをとる限り、弘法大師は、けっして好ましい人物ではない。
医学と医術はちがうもんね、と佐保田先生が書いていたけど、「医学が必要でなくなること」なんてそもそもないのに、なぜホリスティックなもの(という単語をあえて選んでみる)を否定するのだろう。「医学」自身が死への恐怖に叫んでいるようにみえる。
ということを考えさせれくれるシンクロモデルとしても空海さんが登場する。
<31ページ 空海における密教思想の発展 より>
陛下、あなたの徳がすぐれていたために、こういうりっぱな仏教がやってきた。それはすばらしいことではありませんか。私は罪をおかしたおそれを感じますが、それより、このえがたき仏教をえた喜びで胸がいっぱいです。
中国での留学ミッション20年のはずが2年で帰ってきてしまった後の「御請来目録」の説明。空海師匠による「デキる営業」メソッド! も〜。かっこよすぎる〜。
以下、長いですが、かなり引き込まれた説明です。
龍樹(龍猛)さん⇒空海さんへの流れを理解するのに、いままでこんなにわかりやすい解説文章に出会ったことがないです。
<52ページ 密教の思想的特徴と全仏教の位置づけ より>
空海が、法身説法の理論の理論的根拠とする文献は、ほとんど新来、新訳の経典である。
こういう経典をつかって、彼は密教の法身説法の理論を説明しているわけであるが、その前に、彼は、はなはだ巧妙に顕教の経典をつかって、顕教の経典が、己自身のなかで、己の限界を暴露していることを指摘している。
それは、果境不可説ということである。仏教では、因果を重視する。よき因がよき果を生む。
因位は、つまり、菩薩が発願して如来になろうとする境位である。しかし果位は、その因行によって、悟りを開いて、完全に仏になった境位である。この完全なる仏になった境位はどんな境位であろうか。顕教ではこういう境位を、有に非(あら)ず、無に非ず、言葉を離れた絶離の境地であるという。
すべての顕教について、同じことがいえる。空海は、華厳、天台、法相、三論の経典から、こういう文句を探し出し、そこに、顕教の限界があることを指摘している。このような因位にあらざる果位を、顕教では、遮情つまり否定を通じてしか表現できないと考えるが、そのような果位そのものは、否定ではなく、肯定によって表現されるべきものではないか。
そして、このような顕教において説きえざる果分を肯定的、積極的に説くのが密教であると彼はいう。
これは、なんでもない論理の遊びのようであるが、実は、そこに、仏教哲学のもっとも重要な問題が内在しているのである。なぜなら、仏教は、本来、現世にたいする否定精神を、その理論の根幹にもっている。釈迦の仏教は、四諦十二因縁を、その理論的中心としているという。それは人間を苦の相に見、そして、その苦の原因を欲望に見て、その欲望からの脱却を説く教えである。そして、現世を苦とする見方の根底には、人間を死の相、無常の相においてとらえる見方がある。
現世を欲望に支配される無常の世界と見て、そういう世界を厭離して、いかなる欲望にも支配されない浄(きよ)い世界を求めるのが仏教の根本精神である。
このような精神をとる限り、仏弟子は釈迦のごとく、家を捨て、町を出て、いっさいの世俗から離れて、ひとり悟りの道を楽しまねばならない。
それは、たしかにりっぱなことかもしれないが、果して、仏教はそうであっていいのか。仏弟子たちが、そういう超越的な悟りの生活を送ったとしても、この世はよくなるものではない。人里から離れ、清浄なる悟りを楽しむ弟子たちよ、汝は己の清浄さ、己の悟りを否定し、もう一度人間のもとに、世俗のもとに帰らねばならないのではないか。まさに龍樹らによって起こされた大乗仏教の思想は、このような伝統仏教の世俗否定性にたいする批判から起こった。そして、龍樹は、そういう主張をうらづけとして、空と中の理論を説いた。有(世俗)にも無(非世俗)にもとらわれない空の智慧、有でもない無でもない中の智慧で生きる。いわば、龍樹は仏教者にたいへんむつかしい実践を命じるのだ。世俗でもなく、非世俗でもない、そのいずれにもとらわれない、きわめて困難な、きわめて危い、中の道を歩め。
この龍樹の主張は、その後の仏教の運命を支配してしまうほど革命的な主張であった。母国インドではともかく、外国において、特に中国において、大乗仏教は伝統的な小乗仏教よりはるかにより多くの信者を獲得した。おそらく、その大乗仏教の現世重視の精神をもっている中国人に好かれたからであろう。
「仏教は、本来、現世にたいする否定精神を、その理論の根幹にもっている」というところが、読み逃してほしくないところ。そして、いままでこの点について上手に語ってくれていた日本人の文章を見た事がなかった。直近でもチベット人だ。(参考:「龍樹の非哲学」)
この二人に比べたらずいぶん最近の人になるけれど、ラーマクリシュナ師⇒ヴィヴェーカーナンダさんの系統も、ヨーガのなかではこれに似たアプローチではないだろうか。まだどうともうまく表現できないのだけど、そう感じます。
空海さんが「ヨガ宗」といわれたゆえんを感じる解説です。(参考:Wikiの「ヨーガ」の「日本の状況」の章)
そして最後に、「現世重視の精神をもっている中国人に好かれた」というのがかなり興味深い結び。来世まで見据えるインド人と、現世でどうするかを考える中国人。先月「中国人の心理と行動」を読んで、この違いにもっとも腹落ちした方程式の係数のような謎解きの解がこれだった。
梅原教授、すごいでつ。「寂聴・猛の強く生きる心」で、「かなりイカしたジイサン」という印象を持っていたのだけど、どうにも土台がすごすぎる。
<57ページ 密教の思想的特徴と全仏教の位置づけ より>
世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ。
そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。
私も思う。
以下は、空海さんの教えの中でも有名な「即身成仏義」の解説です。原文はわかりにくいので、いきなり著者さんの訳から紹介を始めますが、この訳が実に素敵です。
<63ページ 『即身成仏義』より>
六大をもってあらわす法界(あめつち)の体性(いのち)は
これをさまたげるものなく常にゆが瑜伽(とけあ)っている
四種の曼荼羅(さとりのよ)の真実の相は
かれこれたがいに関連して相離れない
仏と凡夫(よのひと)との三つの神秘の作用(はたらき)が
たがいに加持(ちからぞえ)するがゆえに速やかに悉地(かないごと)をあらわす
あらゆる一切の身が互いに円融(とけあい)して
恰(あたか)も帝釈天の珠網の如くなるを即身(そのみ)と名づく
一切をつつみ一切をつらぬく本初の仏は
法爾自然(ほうにじねん)に薩般若(あらゆるちえ)を具して不足なし
その本初心の表現たる各々の衆生は
各々に心王心数ありて刹塵(くにのこなのかず)に過ぎたり
その心識そのままが転じて智となるがゆえに
各々に五智と無際限の智とを具して欠くるなし
その智をもって一切を現じ一切を照すこと
円鏡力の如くなるとき真実覚智の仏となる
この偈を空海は一句ずつ、解釈するわけであるが、この解釈はどうしたわけか、即身の解釈にくわしく、成仏の解釈はいたって簡単である。
これは、けっして偶然ではないと思う。密教の特徴を即身成仏としてとらえたとしても、その力点は、やはり成仏より即身の方にあろう。成仏はあらゆる仏教の共通の思想であるが、即身の成仏をとなえるのは、まさに密教のみであるからである。
(中略)
身とは六大であると、空海はいう。六大とは何か。六大とは、地水火風空の五大に心を加えたものである。
このうち五大は、いわば、物質的存在である。地水火風空の五つの原理で、あらゆる物質は出来ていると考える。しかし、物質的原理のみえ、ものは存在しているのではない。物質的原理に、必ず精神的原理が加わっている。この精神的原理が、心といわれ、識といわれ、また覚といわれ、智といわれるものである。
密教によれば、あらゆるものは、物質的原理、すなわち五大と、心、すなわち識からなり立っている。その六つの存在、六大は互いにまじり合って、あらゆるものを構成している。
もしも、あらゆるものが、そのように六大から出来ているとすれば、すべてのものは、すべてのものを、その内面に含んでいる。「六大無碍にして常に瑜伽なり」というのは、そういうことであろう。
「瑜伽=とけあう」「悉地=かないごと」の訳の深みに感動。「即身=そのみ」もしびれます。
そして、空海さんの教えでは「実践」がとにかく重んじられているのですが、そのことを「即身>成仏」という説明をしている。シンプルな手法で盲点をつかれた気持ちよさ。かるく悶絶。
「すべてのものは、すべてのものを、その内面に含んでいる」⇒「六大無碍にして常に瑜伽なり」の解説もすばらしい。
<67ページ 『即身成仏義』より>
ライプニッツはモナドというものから世界を説明したが、密教の場合、自己というものは、外に大きな窓があいていて、そこから、あらゆるものが入ってくることが出来るモナドといってよいであろう。すぐに、われわれ自身は、その本質において、六大からなりたっていて、宇宙の中心仏である大日如来と同じ性質である。しかし、われわれは小さい自我にとらわれているために、このような自己の本質をよく理解しない。しかし、われわれがこうした小我へのとらわれを離れ、自己の内的本質に目覚めるとき、われわれの中に大日如来は入り来り、われわれは大日如来と一体となり、そして、これによって、われわれは自由自在な仏の安楽行をし、そして、それによって、また、不思議な力を発揮することが出来る。
ここにもついて回るライプニッツ。まだ絵だけ見せられると「黒いかつらのバッハ?」と答えてしまうくらいライプニッツさんのことは知らないのだけど、いいかげん読めといわれたような気分。だれか良書を知っていたら教えてください。
<70ページ 『即身成仏義』より>
身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。密教は、あの唯識仏教のように、単なる唯心論ではないのである。そうではなくてそれは、物質的原理を、精神的原理以上に強調している。身体は、すなわち、わが内なる物質なのである。
物質が肯定されるとき、客観世界が肯定されるのである。密教は偉大なるコスモロギーをもっている。コスモスの中で、われわれの存在が考えられている。
私はこの身体性の肯定、物質の重視、コスモロギーの存在を、密教の思想的特徴と考える。
空海さんの教えのなかで都度感じさせられる「身体性」と「コスモロジー」は、ヨギが空海さんにハマってしまう最大のポイント。理趣経を読んでも同じように感じる。
さて、次は「声字実相義」の解説です。わたしはこの解説をいままで記憶するほどには読んだことがありません。「表色」という認識表現が登場するのですが、その言葉の存在自体に感動しました。
<84ページ 『声字実相義』より>
この表色という考えは、まことに興味深い。表色がこういうものであるとすれば(補足:のちに説明を引用します)、それは、人間の行住坐臥の行動を表す。色というのは物質的世界であるが、色と形だけで物質的世界は出来ない。表色というのは身体的世界と考えてよいであろう。身体的世界もまた物質的世界に属するが、しかしただの物質的な世界ではない。空海の立場はそういう立場である。
その点で、それは、物質を重視しながら、ただの唯物論ではない。
この三つの色をわれわれはどう考えたらよいであろうか。たとえば、それは、このように理解してよいであろう。
ここに今一人の男がいるとする。その男は顕色(けんじき)をもっている。たとえば、その男の顔は黄色く、ネクタイは赤く、ワイシャツは白く、洋服は青く、靴は黒い。この、黄、白、赤、青、黒は顕色であろう。
また、その男の顔は丸く、胴は長く、足は細短い。この長短麁細などが、形色(ぎょうしき)ということになる。
そして、その男は足を伸ばし、手を曲げて、寝そべっている。この屈申坐臥が表色であろう。
顕色、形色が、静的なるもの、空間的なるものであるのにたいし、表色は動的なもの、時間的なものといえようか。
ところで、このような色は何によって起るのであろうか。それは識によって起ると空海はいう。
是(かく)の如く、一切顯形表の色は、是れ眼所行、眼境界、眼識所行、眼識境界、眼識所縁、意識所行、意識境界、意識所縁なり。之を差別と名づく。是の如くの差別は即ち是れ文字なり。各各の相、即ち是れ文なるが故に。各各の文に則ち各各の名字あり、故に文字と名づく。此れ是の三種の色の文字なり。或は廿種の差別を分つ。前きにいう謂所の十界の依正の色差別なるが故に。
私が密教に魅かれるのは、密教が世界の差異というものに好意的であるからである。差異に好意的であるということは、色に、物質的世界に好意的である、ということである。密教は、精神の一元論で世界をぬりつぶすことをしない。
わたしも、空海さんの教えは「差異に好意的」だと思う。すごく思う。差から逃げてシャットアウトしようとしたり、別の理由を探したりしない。
「表色」については、眼に飛び込んでくる「好み」の要素のなかに、「動的なもの」というのがやっぱりある。体の癖からその人の性格を感覚的に読んでしまうというのもあるのだけど、たとえば「ギャップに驚く」ようなことも、「あら。あんな身のこなしなのに、こんな感覚でものをキャッチする人だったんだ」なんて思ったりすることがある。
それを、「それは識によって起る」といわれると、すごくしっくりくるんです。
時間と空気の移動も伴って感じる「表色」には特別なヒキの力があると思う。縁というものの多くは、ここでの化学反応が大きいんじゃないかと思う。
ここからは、「吽字義」の説明です。とにかく内観だ! というタイプの仏教に比べてわかりにくいとされる真言密教の解説として、なるほどこうやって紐解いていくのか、と参考になりました。
わたしはヨーガと仏教についてわりといろいろな学び方をしてきたので、人気の親鸞さんや道元さんと比べて、空海さんの密教には「ともすれば消極逃避の材料に利用されかねない、"謙虚であれ" なノリではなくて、とても積極的で仕事に役立つ教えなのに、呪術的な見かたを自己培養して怪しまれがちなのがもったいないなぁ」と感じていました。
なので、この梅原先生の「吽字義」の説明を参考に、今後できるだけわかりやすく表現していけたら、と思っています。
<98ページ 『吽字義』より>
空海は、かつてすばらしい世界があったがやがて無くなった、というようなペシミズムの信者でもない。世界は徐々に発展していくという、オプティミズムの信者でもない。
そういうペシミズム、あるいはオプティミズムの、いずれにもまちがった因縁観がある。
そこには、存在に対する偏見がある。そして、その偏見は現在の生そのものを十分肯定出来ない弱さから生れているように思われる。
空海はいう。すべては同じだ。すべては不生なるものの現れである。
因が果より、より不生であるわけでなく、因が果より、より不生であるわけではない。すべては平等にして、すべては平等に不生なるものの現れである。
空海の世界観において、すべての存在はすべての時間において、神に連なっている。不生なるものに連なっている。それ自身、因果のくさびによって、連ねられているように見えるにせよ、すべての存在者はひとしく不生なるものの現れにすぎない。訶字の義というのは、因果論の上に立ちながら、結局、因果論の否定になる。
なににつけても、「ああしたからこう」という感じがまったくないんです。空海さん。「こうしたいからやります」「こうすることになりました」の実行ばかり。かっこいいんだよなぁ。「実践教」だと思う。
<101ページ 『吽字義』より>
しかし、多くの世間の凡夫はそれを知らない。智者が同一を見るところにおいて、愚者は差別を見る。そして、差別にとらわれて、さまざまな迷いを生じ、恐れを生じ、さまざまな苦を受けている。そのさまを空海は、無智な絵かきが自ら、絵具で怖ろしい夜叉の絵を画いて、自ら見て怖畏を生じて、地に倒れているようなものだという。すべての恐るべきものも、自らの心が生んだ妄想にすぎないのである。仏は有智の画師として、すべてを了知しているという。
たしかに真言密教の教説は深くて、凡夫には容易に理解しがたい。しかし、それが理解しがたいのは、凡夫が妄想微意とらわれているためであって、仏そのものがかくそうとしているわけではない。
仏陀は「外側から見た自我へのとらわれ」と表現しているけれど、空海さんは「差異に対して勝手にネガティブな光の当て方をする行為と、それをしたあなた」という逃げ場のない言い方をする。わたしはここに「逃げ場がない=誰も邪魔してないでしょ、ほら。ね」というやさしさを感じるんです。内側から見なさい、とは別のアプローチでカーテンを開けるような。
<109ページ 『吽字義』より>
禅の墨色の世界にたいして、密教の世界は五彩の世界である。五彩の世界も、原色の五彩の世界である。それは、まことにケバケバしい色の世界である。なぜに、そのような色の世界が必要であるか。それは五彩の色を通って、世界万歳、感覚万歳を叫ばれんがためである。
わたしは高野山で朱色を見るとテンションがあがりつつも、なんだか大きくて力強い、あたたかいものに抱かれたような感覚になる。そうか、感覚万歳! なのか。
<116ページ 『吽字義』より>
吽の字の中に、すべての仏教が含まれる。さすれば、吽字の力は絶大である。吽字を発すれば、すべての悪魔は恐怖し、降伏するというわけである。
『吽字義』はただの理論書ではない。同時に実践の書である。四魔がおそうとも、吽字の一字で退散せざるものはないのである。
この恐怖義は、空海にとって、大変重要な思想である。密教の中には、どうしても呪術的なものがある。吽字の一字で退散するのは、心の内の悪魔のみではなく、さまざまな天災地変もそれによって退散する。これが、かつて密教が異常に重んぜられ、そして、また、密教が異常に崇拝された所以である。しかし、密教の教義は恐怖義を究極としない。もう一つ上に、歓喜義がある。
復(また)次に等觀歡喜(とうかんかんぎ)の義とは、此の吽字の中に訶字有り、是れ歡喜の義なり。上に大空有り、是れ三昧耶なり。下に三昧の書の字有り。是れ亦三昧耶なり。二の三昧耶の中に行するなり。三世の諸佛皆此の觀に同じたまふの故に、等觀の義と名づく。
吽字の中に訶字が含まれる。これはハ・ハ・ハ(ha-ha-ha)という笑声を含んだものである。
大笑いの意味である。しかも、吽字には、上と下に、三昧耶を示している。上と下には、自利と利他を通るものである。自ら楽しんで大笑、他人を救って大笑、三世諸仏は皆、このような観をなすという。
私はここで、空海は三世諸仏の大声の笑いを聞いていると思う。世界の諸仏は皆笑い、とりわけ、大日如来が大声で笑っている。空海もともに笑って、笑いによって大日如来と一体になっている。
『吽字義』はこの等観歓喜義で終っている。
最後は「ラフターヨガ」なんですって。これには感動。
ものすごく長くなってしまいましたが、空海さんファンにはとてつもない良書です。
このヨガ宗は、やっぱり爆裂かっこいいです。今月行ったばかりなのに、また高野山へ行きたくなってしまった。