図書館で借りました。密教の本を読んでいると、華厳の教えについて触れることがあり、どんなものかと読んでみました。
仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学んだという「明恵上人」に興味がわいたので、また時間があるときに探求してみたいと思います。
今回もいくつか引用して紹介しますが、最後に書く「比喩の話」にガツンとやられました。
<28ページ 華厳と密教の融合 より>
中国において華厳と密教とは同格として一つに融合したが、しかし、華厳の上に密教の哲学を置いたのが、空海の密教であった。空海は日本人離れした組織力と直観力に長じ、十住心(じゅうじゅうしん)の哲学体系において華厳を第九に置き、密教を第十住心に据えたのであった。哲学としての華厳は密教的業法の理論づけに利用されたのである。
ふうむ。メモ。
<139ページ 『原人論』─仏教の立場における人間論 より>
(気は中国の思想であるという流れから)日本でも気の哲学を論じた仏教者はあまりいないが、有名なのは臨済宗の白隠(1685─1768)で、『夜船閑話(やせんかんわ)』とか『遠羅天釜(おらてがま)』は気の哲学である。これは人間の気というものが、どのように人体に及ぼしていくかを論じたものである。
Wikiで見たら、「1708年 越後(新潟県)高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟」とありました。いつか帰省の際に足をのばしてみよう。
<148ページ 小乗教の『倶舎論』と『阿含経』 より>
小乗教では分段生死の立場をとる。分段生死とは肉身の生死である。小乗仏教では肉体を煩悩の根源とみる。このため肉体を滅ぼさなければ悟りが得られないとする。いわば肉体は悪の根源なのである。そのため肉体のあるかぎりは、本当の悟りは得られないものとする。そこが肉体を持ったまま悟りを開くという大乗教と大きくちがうところである。
大乗仏教と小乗仏教の違いについて、とてもわかりやすく書かれていたので、メモ。
<167ページ ニヒリズムと華厳経 より>
比喩の話で、地獄と極楽をどこがちがうかというと、どちらも同じように円卓につき、ごちそうがいっぱい並んでいるが、地獄の人たちは椅子に坐り左手は縛られていて、右手だけに長いスプーンを結びつけられている。それで「めしを食え」と鬼に言われる。さあ、食べようと思っても、椅子に固定して縛られて、長いスプーンなので遠くのごちそうしか届かず、それをすくって食べようとすると、パーンとみな背中にいってしまって口に入らない。背中はごちそうのくずだらけだが、みな痩せ細って、「おまえがぶつけたからこっちへいった」と言ってどなる、「なんだ、おまえばかり伸ばすからおれが取れない」とどなる。
ところが極楽は、まったく同じ場面だが、こちら側のA君は円卓の向かい側のB君に、「お先にどうぞ」といって、長いスプーンにごちそうを入れてB君の口にやる。B君はそれをいただいて「ありがとうございました、お先にいただきました。それでは……」といってB君もまた長いスプーンでごちそうをすくって「さあ、どうぞ」とA君にやる。A君も、「どうもありがとう」といただく。
毎日職場で、「なぜ同じ環境にいながらこうも人や仕事への向き合い方が違うのか」と思うことが多いので、とっても印象に残りました。
華厳の教えというのは、比喩や表現にうなることが多い。とっても感度の高い人によって伝えられてきたような、そんな感じがします。
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