うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

虫眼とアニ眼 養老孟司×宮崎駿(対談集)

両氏の3度の対談を文庫にした本です。面白かった!
クリスマスにりつこの部屋へご飯を食べに行ったときに本棚から拝借したのですが、ご飯が出てくるまでに没頭してしまい、「もー! おとなしいと思ったら読書はじめてる」と、手料理をつくってくれる彼女に怒られるダメな彼氏のような状態でした。


2回の対談が【『もののけ姫』の向こうに見えるもの】にまとめられ、1回の対談が【『千と千尋の神隠し』をめぐって】というタイトルで章になっています。そのあとの養老孟司氏による「宮崎アニメ私論」と、宮崎駿氏の「あとがき」も面白かった。


さっそく、紹介行きますね。


■『もののけ姫』の向こうに見えるもの

<45ページ あまった「感性」が人間に向いた より>
宮崎
よく画一的な教育の対極として、個性尊重って言うけれど、尊重するほどの個性なんて、まだ養われていないでしょう。ところが学校も親も都合のいいところで手を打って、それを個性という名で呼ぶもんだから、個性の中身がどんどんつまらなくなってしまった。

ここから、「余剰エネルギー」の話に展開していく。面白いんです。

<50ページ あまった「感性」が人間に向いた より>
養老
まず感性の基本には、ある種の「差異」を見分ける能力があると思う。それが広告のような商売では、気持ちのいいものを指すわけだけれど、社会一般を考えると、さっきの怖いもの見たさじゃありませんが、当然、気持ちの悪いものも含まれる。平たく言えば、感性とは、「なんかほかとは違うぞ」って変化がわかることと言っていいんじゃないだろうか。で、現代の人間、とくに子どもたちが、いまどこにその差異を見ているのかを考えると、結局人間関係の中にそれを見ちゃっているんですね。


(中略)


宮崎
人間に関心が向きすぎていて、その結果「アイツが気に入らない」だとか「アイツはダメなヤツだ」とか、人間に関しての話題ばかりになるんだ、と。


(中略)


養老
イジメが深刻になっちゃう根本には、人間ごとにしか関心が向かない狭い世界があって、昔からあったことが、実は拡大されてしまった。いや、拡大というか、世界が狭くなったぶんだけ、拡大されて見えるんです。

俯瞰とミクロフォーカスの違いと「余剰エネルギー」のベクトルについての対話。「人間に向く」というダークサイドをインドの有名人(ブッダさんとか)たちが「我」としていたところを、あらゆるナマモノのなかの「人間」という対象で語られています。
普通にOLしながらググッとくるこの指摘。

<60ページ 生きていくための武装に欠けている より>
養老
人のせいにするというのは都会の人間の典型的な特徴です。なぜかと言えば、都会というのは人が作ったものしかないんだから、なにが起こったって、追及すりゃあ人のせいにできる。これが自然の中なら、「仕方がない」ですむんです。ところが、仕方がないなんて言うのは遅れた人間だ、という教育をぼくらはめんめんと暗黙のうちに受けてきた。沖縄へ昆虫採集に行ってハブに咬まれれば「仕方がない。バカなやつだ」ですむけれど、東京でハブに咬まれたら、誰が放したんだという責任問題でしょう。

仕事で「クレーマー」について考えることが多いこの頃なのですが、事例に会うたびに文明の代償だと思う。自然の中なら、「仕方がない」ですむことを、自然の中ではない前提で定義していくって、生態学的にやっていかないと無理なんじゃないかと思う。攻略法なんてない。

<66ページ 生きていくための武装に欠けている より>
宮崎
 これ、少なくともぼくらの現場に関しては、かなり深刻な問題です。本人たちはみんな真面目で気がよくて、実に優しいいい子たちなんだけれど、一方で信じられないくらいに、生きていくための武装に欠けている。武装というとおおげさだけど、世界のことを予見する知恵とか、当座の困難を手先で切り抜ける方法といったことを備えずに、なにも持たずに出てくる。

ババア面して語るほどの実年齢ではないのだけど、「世界のことを予見する知恵」については、「まず信じてしまうってことが、どうしてそんなに簡単にできるの?」と思うことが多い。「まず疑う」でも同じ意味なのだけど。「確かめる」ことをする体力がないように見えたりする。

<83ページ お先真っ暗だから面白い より>
養老
(そこの住人が、どういう頭で暮らしているか、空の上から見るとわかるという話から)
成田に帰ってくると、これがなんとも言えないんですね。都市でも田舎でもない。つまり碁盤目みたいなルールでもんし、タイの田舎とも違う。でも、これはこれであるルールに従っているんだろうな、というのがなんとなくわかる。けれど、そのルールを言ってみろと言われても言えない。それが日本という気がする。ぼくはあの風景を見ると、なんで日本が暮らしにくいのかが見えるような気がするんですね。つまり暗黙のルールが幾重にもかかっていて、しかもそれは無意識なんです。それを何百年も続けてきたわけだから、外国人が日本にきて「わからない」と言うのも当たり前だと思う。

「暗黙のルールが幾重にもかかっていて、しかもそれは無意識」というのが興味深くて、うちこは身近に父親のようなインド人が居ますが、「日本人はホンネとタテマエ」といつもおっしゃる。暗黙のルールなんですよね。

<88ページ お先真っ暗だから面白い より>
宮崎
ぼくらはアメリカ人というと、つい仕事と家庭生活を両立させて、ジョギングしてからだ絞ってって想像するけれど、あれは全部ウソです(笑)。仕事やってる連中は、日本人以上に寝ないで仕事やってます。家族サービスなんてなんにもやってませんよ。そういうのをやってるのは、ぶくぶく太ってぐーたらに仕事やってる連中が、家族サービスしかやることないからやってるんです。ぼくらはそのカッコいいところだけ寄せ集めて勝手なアメリカ人像を作り上げて、それに劣等感を持ってる。滑稽ですよ。全然うらやましくないですね、アメリカの社会なんて。

気持ちがいい!

<93ページ お先真っ暗だから面白い より>
足の裏にくい込む石の痛さとか、まとわりつく服の裾とか、そういうものを感じながら、走るっていうことを何とか表現したいって机にかじりつくのが、ぼくらにとっての官能性です。(宮崎駿

とってもヨガ的なリアライゼーション。うちこはヨガをはじめた初期から「これはまるでデッサン」と思っていて、いまもよくそう思う。そうか、これは官能だったのか。



■『千と千尋の神隠し』をめぐって

<152ページ アニメーションはリアリズム より>
養老
 たとえば、お百姓さんが田んぼで一生懸命働いていると、いつしか里山の風景ができます。しかしお百姓さんがそれを作ろうと思って働いたのかというとそうではなくて、ただひたすら米を作りつづけてきたわけですね。
 そうやってひたすら米を作りつづけているうちに、次第に「努力」「辛抱」「根性」といった抽象的概念が自然と根づいてくる。けれども、若い人たちに向かって「おまえは根性が足りない」と言っても通じるはずがない。こういう抽象概念はそんなに簡単に理解できるものではないし、理屈で説明できるものでもないんですね。苦労しながら自分で体得していくしかない。

いいからやれ。実践しかないんですよね。



■見えない時代を生き抜く ── 宮崎アニメ私論(養老孟司

<174ページ より>
 学問の世界にも、芸術と同じく、方法論がある。ところが日本の学問は、方法論ではなく、対象で分類される。人体を調べているなら解剖学。法律を調べているなら法学。これは単純でわかりやすいが、おかげでいちばん重要なことを忘れる。物の見方、扱い方である。物の見方、扱い方をある学問分野で訓練すれば、その方法論は、どこにでも使える。

体得のこと。うちこは、なんでも「ヨガ眼」なのかもしれないな。



■文庫本あとがき 宮崎駿

<190ページ より>
 いまは、好きにやっていくのがとても難しい時代です。養老さんと話していると、あの人が世の中とスレスレにかかわっているのが判ります。スレスレというのは、それ以上相手を追及すると罵倒になってしまうから、それ以上は踏み込まないという境のこと。ぼくは、それが養老さんの見識だと思っています。世間には、あいつは馬鹿だ、これもインチキ、あれもウソと罵倒し続けている人がいますが、あれはむしろ本人の精神状態の問題です。この世の中、おかしなことで満ち満ちているのは判っています。しかし、どこもおかしくない世の中など歴史上一瞬でも存在したことはありません。世の中とは、いつもどこかおかしいものなのでしょう。「おかしいねぇ」と言いつつ、好きなことをやっていこうと決めている。それが養老さんだと思います。

「見識」かぁ、と思った。鋭い「おかしいねぇ」の発信は、受け手の読解力や智慧によって「おかしいねぇ」になってねじれたりする。だから、さらにおかしい。
「好きなことをやっていこうと決める」というのは「好きなことをやる」という実践あってのことで、「好きなことをしたいんだ」なんて言うのはどうぞご勝手に。なんですね。


「老成した子ども」と扱われがちなOL生活なのだけど、この本を読んだら、このままでもちょっとだけいい大人になれそうな気分になれました。

虫眼とアニ眼 (新潮文庫 み 39-1)
養老 孟司 宮崎 駿
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