長崎でかおりヨギの部屋にお邪魔したときに貸してもらった本。彼女は中国に2年留学して、今年戻ってきた。彼女と一時期重複→入れ替わりで、別のヨガ友のユッキーがいま中国で勉強をしている。(ブログの更新は止まっちゃってるけど、元気)
どれだけ中国人と接した経験があるかというと、過去を遡ること約10年前、外資系IT企業で働いていた頃に、4人の中国人とニューヨークで3日間くらい一緒に行動をした事がある。2日は仕事で、1日は遊び。現地でおちあった他国ブランチや本社の仕事仲間だ。
そのときの中国人友達経験は、いまでも鮮明に記憶している。
そして今の仕事でかれこれ1年半、中国人の女子同僚と一緒に仕事をしている。彼女は人に誤解もされるし、仕事のうえで他の人と摩擦が起きたりするけれど、うちこにとってはいろいろなことを教えてくれる人でもある。
その同僚は20代後半で、若い。ほかの日本人の同僚と比べて圧倒的に「お金」への意識が違うので、ビジネスを一緒に考えていく点で圧倒的に感度がよいところがある。一方、日本語の部分ではまだ細かいニュアンス表現ができないので、本人も何がいけなかったのか運動神経的に理解する間もなくちょっとした摩擦が起きる。
わたしの場合、そんなときには意味を分解してとことん話すのだけど、あまり他の人はそこまでしないので、誤認識が重なりっぱなしになってしまうことがある。こういう部分での根気は、われわれ日本人が負うべき当たり前のマナーだと思うのだけど、日本人側に説明能力がないとお互いにストレスになるのはうちこにも想像はできる。限界があるかな、と感じることもある。
ここ1年半そんな日々を送りつつ、じっと彼女との間で起こること、いままで話をしたいろいろなことを思い出しながらこの本を読んだら、とっても面白かった。
この本は、3つのキーワードを下敷きに、中国人のものの考え方を説明してくれている。
「面子(ミエンツ)」「関係(グアンシ)」「人情(レンチン)」
読みすすめながら、「なるほどなぁ」と思うことが多々あった。あと、インドと似てたりまったく逆だったりするいろいろなことが面白かった。
印象に残った部分を引用紹介します。
まず。
子供同士の喧嘩で自分の子を叱るのが日本の親、相手の子供を叱るのが中国。という例がおもしろかったのだが、
<192ページ 中国人の行動文法としての「関係主義」 より>
中国人は、幼少期から面子に対する感受性を教えられる。その結果、自己中心的で状況依存的という、一見矛盾した中国人の基本特性が生まれることになる。中国人の面子は、日本人のそれに比べて個人の能力評価という側面が強く、彼らのもつ強い自尊心は、自己肯定的な感情を生み出すことになる。
わたしの同僚は「自己肯定的な感情」には固執しているところがみられない。とても日本人ぽいと思う謙虚さがある。でも、「自己中心的で状況依存的」というのは、確かによくわかる。彼女は、薄っぺらい褒め言葉をすごく嫌がって、他の人に褒められたときにうちこにその気持ち悪さを打ち明けてくれるのだけど、そういうときは「個人の能力評価」の本質にこだわっていてえらいなぁ、と思ったりする。
<18ページ 現代社会への関心の薄さ より>
しばしば指摘されているように、日本人は過去の中国に関心をもつ分、現代の中国には関心をもちにくい。他方、中国人は現代の日本に関心を抱いている分、過去の日本に関心を向けない傾向がある。
たしかに。
<45ページ お食べなさい、お食べなさい! より>
宴会の際には、こうしたルールを守ることが特に期待されている。ホストは客人が食べきれないだけの料理を出し、客人はホストに感謝しつつも多くを食べ残す。最近では、都会の一部のインテリにはこうした風潮を忌避する傾向が見られるが、農村では、こうした慣習は依然として存在している。
インドっぽい!
<47ページ 宴会の中の人間関係 より>
では、どのようにして勧められる酒を断るか。「兄貴の注ぐ酒は格段にうまく、酔いの回りがはやすぎてかなわぬ」とおだててみたり、「酒を呑む代わりに歌を唱うというのはいかがだろう」とか代替案を提示したり、時には「日本で子どもたちが待っている。ここで死ぬわけにはいかぬのだ」と大仰な表現をもちい、相手に不快感を与えないよう心遣いをするのが礼儀である。
「後で仕事がある」だの「呑み過ぎに注意している」などと「身勝手な」理由を持ち出してはいけない。そんなことをすれば座の雰囲気が白けてしまい、懇親の意義が大いに減じてしまう。酒のやり取りは、互いの顔をいかにして立てあうかを競う、一種のゲームなのである。
上杉謙信の時代の越後を想像する。
<50ページ 「紅眼病」(ホンイェビン)と結果の平等 より>
もっとも、こうした顔の立てあいは、特定の人間だけが注目されたり、よい待遇を得ることを、人々が忌み嫌っていることをも示している。業績主義的な価値観が強く見られる都市部の若年層を例外にして、多くの中国人はできるだけ平等な処遇を受けることが、それぞれの顔を立てあうことになると考えているのである。
これは、日本にもインドにもない感覚だわ。
<60ページ 自己中心的な中国人 より>
天津での合併事業に参加した日本人ビジネスマンは、タイやフィリピンでの駐在を含め一七年に及ぶ海外勤務経験を振り返りながら、中国人従業員の特徴を次のように評価している。欧米人の人たちといろいろと話をしてみて、私なりに中国人一般の心理特性なり行動特性をまとめてみると次のようになろうかと思います。もちろん、中国人とはいっても、地方によってずいぶんと異なる側面が見られるでしょうが、以下の点では極めて一般的で、しかもまったく日本人と異なっています。つまり彼らには、極めて強い現世利益の考え方がり、またどんな人間でも、みずからを中心に考える中華思想をもっているのです。現世利益というのは、まさに現在を生きることに関心をもっていることを意味し、その意味では大変合理的です。また中華思想というのは、確固たる自己を中心に物事を考え、いわば「天動説」のような考え方と理解すべきです。しばしば鼻持ちならない感じがするほどに中国人は自己中心的ですが、このような強い生き方は、東南アジアでは決して感じることができなかった、中国人の優れた特徴です。
この「極めて強い現世利益の考え方」というのがものすごく彼らの行動の理解のヒントになる。これもひとつの魅力。
そしてまったく逆に近い感覚で、日本人が「なんだよ急に。いい奴じゃん」となるのが、インド人の「現世利益だけでないなにかの指標にもとづく行動」だ。これもひとつの魅力。そして日本人は、それらのど真ん中にいる気がする。
<67ページ トラブル回避の三つの方法 より>
他方で、議論をさせようとしても、中国人従業員がまったく反応しないので困ると嘆いている日本人駐在員も多い。発言を求めても沈黙してしまって、みずからの意見を開陳しないというのだ。
(中略)
妥協せずに自己主張をするかと思えば、求められても自分の意見を表明しない。この一見矛盾する二つの状況も、顔の集合化によって生じる摩擦を回避する「安定均衡」だと考えれば合点がいくだろう。
黙っているけど意見はある人たちだ。聞けば話してくれるので、これは自分の経験ではわからないな。
<83ページ 面子観に見る日中の違い より>
中国人が個人的な能力に強い関心をもつために、謝らなかったり、お礼を言わなかったり、自分の権利や利害を主張することによって、みずからの面子の存在を保とうとするのに対して、日本人の場合は、その逆に、謝ったり、お礼を言ったり、自分の権利や利害を主張しないことによって、みずからの面子の存在を維持しようとする。特に、みずからの面子がつぶれそうになった場合、こうしたプレゼンテーションの仕方に違いが見られ、双方が相手に違和感を感じている。
「すいません」がこんなにスラスラ出まくる国のほうがおかしいと思う。わたしは日本人のプレゼンテーションを、感度減退を助長する恐ろしく運動神経の悪い文化だと思っている。なので、「もっと独裁者っぽいイメージだった」とか言われるんだろうな。わし。
<147ページ あなたの姓は? より>
中国系社会には宗親会(そうしんかい)と呼ばれる組織がある(吉原和男他『<血縁>の再構築 ── 東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、二○○○年)。劉や陳、李など、同じ姓をもつ人たち ── 特定の出身地域の同一姓に限定されているケースが多い ── が移動した先で作り上げる組織で、香港や台湾などで広く見られる。
韓国にも同種の組織が存在しており、日本では同郷会や県人会など、出身地域によるアソシエーションは多くあるものの、宗親会に相当する組織は皆無といってよい。
インドにもこういうのがあるけど、わたしはこれ、苦手。
<166ページ 義兄弟の契りを結ぶということ より>
その時は「兄弟」がどういうことか理解できなかったのだが、数日後、筆者が突然虫垂炎に罹って、当時天津の第一中心病院に緊急入院することになった。すると「園田が入院したから助けようじゃないか」ということになり、「兄弟」が筆者の病室に付き添うことになった。
「兄弟」が病室に付き添ってくれるのはよいのだが、筆者を決して一人にしてくれない。痛みに堪えかねて一人涙したい時にも、「おい、大丈夫か」と必ず声をかけてくる。そればかりか、病室の傍でトランプを始めて笑い興じ、しまいには病室の中で飲み食いを始める始末。これではゆっくり休めない。これが「兄弟」なのだ。
義兄弟の関係を結ぶと、自他の境界が曖昧となる。どこからどこまでが自己で、どこからどこまでが他者かが、はっきりしなくなるのである。
「自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの」とばかり、所有権の範囲は曖昧になり、「お前はこうした方がよい」とばかり、自分の意見を相手に押し付けようとする。極端な場合、相手の意見を聞かず、「お前のためにしてやった」と行為の代行をすることさえある。
やだそんな兄弟(笑)。このあと著者さんは、お見合いまでセッティングされたらしい。
<181ページ キーワードとしての「回報」(フイパオ) より>
たとえば、中国の親子関係では、親の世話(恩)を受けた子どもは、成長した後に親のために尽くす(孝)のが当然だとされている。時に、この交換のバランスは崩れるが、最終的に均衡することが理想とされる。子どもの世話をしない親は「慈しみ」に欠けた存在として非難され、親のために尽くさない子どもは「恩知らず」として蔑視されるのは、人々の間でこうしたバランス感覚が常識として共有されているからである。
これは、ほんとすごいよね。と思う。わたしの同僚も、そう。
<210ページ 流動性と階層性が生み出す関係主義の基本原理 より>
移動が頻繁に見られ、度重なる権力闘争や革命、流動的な市場状況など、誰が実力者として台頭するか流動的な環境は、関係のネットワークを拡げてみずからの身を守ろうとするメンタリティを形作ることになった。家族を取り巻く流動的な環境は、直接的な血縁関係をおもたない人々が結びつく必要性を生み出し、找関係(ジャオグアンシ)や拉関係(ラーグアンシ)といった関係の操作化をもたらしたのである。
かおりたんが「国がころころかわるし、近い将来が安定しない。だからお金信仰になる」と言っていたのを思い出す。なるほどなぁ。
<218ページ 頑迷な原則主義者か、柔軟な現実主義者か? より>
政府の指導者がトップダウンで一般原則を述べたとしても、個々の状況に合わせて換骨奪胎させてしまえばよいとする、「上に政策あれば、下に対策あり(上有政策、下有る対策)」という言葉ほど、中国の民衆による権力理解を如実に物語る表現はないだろう。
これは面白かった。「上下陰陽バランス意思」なところが面白い。
他国の人との交流というのは、やっぱりがっつり身近で一定時間をともに過ごさないとわからない。そして、おもしろい。