(※この本は2014年に再読の感想を書いています。あわせてどうぞ)
「秘められたインド」を読んで、同じ出版元の本の中で特にこれが気になり、読んでみました。「カルマ・ヨーガ」という言葉がなんとなく身近に感じる人が増えてくれたらいいな、といつも思っているのですが、この本はコンパクトだし、定価でも1000円だし、読みやすい。仕事で悩むお友達にそっと手渡したい本No.1という感じ。
全体に対しては、ふたつのことを思いました。
(1)この本を読むことで「バガヴァッド・ギーター」の大事なところがけっこう読めちゃう。
(2)インドのカーストの背景を考えて深読みすると「うっ」と思うところもあるけれど、今の格差社会の日本に対しても、同じようなことが言える。
ある意味ものすごく言い切りっぷりがいい。読み方によっては「カースト肯定」なんだけど、そもそもアルジュナもクリシュナも(古代インドまで遡るが……)否定も肯定もない感覚なんだよね。昔の人だからね。と何度か思い直しながら読みました。
いつものように、グッときたところをご紹介します。これ読むと、活動しようというエネルギーがわいてくるはず。
<13ページ 人の性格を形成するカルマ より>
もし、ある人の性格を正しく判定したいと思うなら、彼の大きな行為を見てはなりません。どんな馬鹿でも、ある場合には英雄にもなるものです。人が最も普通の行動をしているのをごらんなさい。それがほんとうに、偉大な人の真の性格を示すものです。大きな機会というものは、最下等の人間をも、ある程度の偉大さにまでは奮いたたせるものです。しかし、どこにいても同じようにその性格が常に偉大である人だけが、真に偉大な人であります。
「どんな馬鹿でも、ある場合には英雄にもなるものです」という、前半に出てきたこの強い言い回しで、ぐいぐい引き込まれました。
<16ページ 人の性格を形成するカルマ より>
われわれのカルマが、われわれが、わがものとし得るもの、理解し得るものを決定するのです。自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります。そして何であれ、自分はこうありたいと思うものには、われわれは、自分でなるだけの力を持っているのです。もし現在の状態が自分の過去の行為の結果であるなら、当然、自分が望んでいる将来の状態は、自分の現在の行動によって生み出されるはずです。ですからわれわれは、どのように行為すべきか、を学ばねばなりません。
皆さんはおっしゃるでしょう、「どう働くか、などということを学んで何になるか。この世では誰も彼もが何とかかんとかして働いているではないか」と。しかし、エネルギーをチビチビ浪費してしまう、というようなこともあります。カルマ・ヨーガについてはギーターは、それは仕事を賢く、科学として行うことである、どのように働くかを知ることによって、人は最大の結果を得ることができるのだ、と言っています。皆さんは、すべての働きは要するに、すでにそこにある心の力を引き出すためのもの、魂を呼びさますためのものであることを覚えていなければなりません。
「すでにそこにある心の力を引き出すためのもの、魂を呼びさますためのもの」って、すてきですね。気づき道場。
<22ページ 人の性格を形成するカルマ より>
最低の形の働きも軽べつしてはなりません。それよりよいものを知らない人には、利己的な目的のために、名声のために、働かせるがよろしい。しかし誰もが、次第に高い動機を選んでそれを理解できるようになるよう、常に努力すべきです。
ここは、すごく心に残りました。「それよりよいものを知らない人には、利己的な目的のために、名声のために、働かせるがよろしい」という背中の押し方が新しくて。そしてその後が、あたたかい。
<30ページ 人それぞれが、自分の置かれた場所にあって より>
ブッダは王位をすてて彼の地位を放棄しました。それは真の放棄でした。しかし、すてるべき何物も持たない乞食の場合には、放棄の問題は起こりようがありません。ですから、この無抵抗と理想的愛について語る場合には常に、われわれはそれの真の意味を注意深く考えなければなりません。第一に、自分は抵抗するだけの力を持っているのかどうか、よく考えてみなければなりません。その上で、力を持っていながらそれをすてて抵抗しないのなら、われわれは立派な愛の行為を行っているのです。しかし、もしわれわれが、抵抗することができないのに、みずからを欺き、最高の愛という動機からしないのである、と信じ込もうとするなら、これはまさに反対のことをしているのです。
「いいわけ」の斬り方がすごい。ズバズバきます。
<44ページ 人それぞれが、自分の置かれた場所にあって より>
女たちの前で、人は無作法な言葉を語ったり自分の力を吹聴してはなりません。
「私はこれをした、あれもした」などと言ってはなりません。
ガールズ・トークで「また武勇伝聞かされたよ」という議題にされますから、やめたほうがいいです。
<66ページ 働きの秘訣 より>
われわれが行うすべての働き、肉体の一つ一つの動き、われわれが思うそれぞれの思いは、心の実質の上にそのような印象を残し、そのような印象は表面にはっきりと現れていないときでも、下層において潜在意識として働くだけの力を持っています。各瞬間におけるわれわれの存在は、心に刻まれたこれらの印象の総計によって決まるのです。
この本には「印象を残す」という表現が何度か出てくるのですが、これが全体感として感じる「日常のカルマ」。
<75ページ 働きの秘訣 より>
かりにある男がある女を愛するとします。彼は彼女のすべてをわがものにしたいと思い、彼女の一挙一投足に極端な嫉妬を感じます。彼女が自分のそばに立ち、自分のそばに座り、自分の命のままに食べ、かつ動くことを欲します。彼は彼女の奴隷であり、彼女を自分の奴隷にしようと望んでいるのです。それは愛ではありません。愛のふりをしている、奴隷の病的な情熱です。それは愛ではあり得ません。
(中略)
あなたが自分の妻を、夫を、子供達を、全世界を、全宇宙を、そこにいささかの苦痛も嫉妬も利己的感情もなくなるような愛し方で、愛することができるようになったとき、そのとき、あなたは無執着であるに相応しい状態になったのです。
わたしは「愛のふりをしている、奴隷の病的な情熱です。それは愛ではあり得ません。」ということに気づいてしまった後にヨーガに出会った。こちらの愛は、長続きしています。
<88ページ 義務とは何か より>
主観的な立場から見れば、われわれを向上させ、高貴にする傾向を持つある種の行為があるかと思うと、われわれを堕落させ獣的にする傾向を持つ行為もあります。
しかし、あらゆる条件のもとにある、あらゆる種類のあらゆる人びとの場合に、どの行為がどのような傾向を持つか、をはっきりと見分けることは不可能です。けれどもそこには、すべての時代と宗派と国々の、すべての人類によってひろく認められているたった一つの義務の観念がありまして、それは一つのサンスクリットの格言に、このように要約されています。「いかなる生きものをも害するな。いかなる生きものにも害を与えないのが徳である。いかなる生きものであれ、害するのは罪である」
バガヴァド・ギーターはしばしば、人生における生まれと地位に応じた義務のことを説いています。人生の生まれと地位は、この世のさまざまの活動に対する各個人の、心理的道徳的態度を大きく決定します。ですから、われわれが生まれた社会の理想と活動にふさわしく、われわれを向上させ高貴にするような仕事をすることが、われわれの義務です。しかし、同じ理想と活動がすべての社会と国々に通用するものではない、ということは特に心にとめておかなければなりません。
このことに対する無知が、民族と民族の間の憎しみの多くの、主因になっているのです。
(中略)
この世に見いだされる無慈悲の半分はここから生まれています。
いくつかの角度で読んで、とても深いところです。(「バガヴァド・ギーター」という字列は本のまんまです)
<95ページ 義務とは何か より>
義務が快いことはまれです。それがなめらかに進行するのは、その車輪に愛という潤滑油が塗られたときに限ります。これがなければ不断の摩擦です。
ここは、「なんてすてきな表現!」と、純粋に感動。
<103ページ 義務とは何か より>
自分が果たすまわり合わせとなった義務の性質についてぶつぶつ言うのは、結果に執着している働き手です。無執着の働き手にとっては、すべての義務は同等に良く、しかも利己主義と欲望を殺して魂の自由を獲得するための能率的な道具です。われわれはともかく、自分を高く評価しすぎです。われわれの義務は、われわれが納得するよりはるかに厳しい標準による、われわれの功罪の判定をもとにして、決定されるのです。競争は嫉妬を生み、嫉妬は心の優しさを失わせます。
(中略)
義務として与えられたものは何でも引き受け、しかも喜ん自分の最善をつくしつつ、働き続けようではありませんか。
「利己主義と欲望を殺して魂の自由を獲得するための能率的な道具」って、ドMだなーこれ。でもここが好き。
<110ページ われわれは、自分を助けている より>
この働きの科学には、この他にもさまざまの面があります。それらの中の一つは、思いと言葉の関係を知り、また言葉の力によって何がなしとげられるか、を知ることです。
「思いと言葉の関係」の示唆まであるところが、この本のすごいところ。
<122ページ われわれは、自分を助けている より>
皆さんは、世のことを案じたり、それで眠れなくなったりする必要はありません。世間は、皆さんがいなくてもうまくやって行くのです。
狂信を避けたときに初めて、皆さんはうまく働くことができるでしょう。
そうそう。「○○さんじゃないと」なんていう言葉を鵜呑みにしてはいけません。「○○さんじゃないと」なんて言われなくてもやるのが、カルマ・ヨーガ。
<133ページ 無執着は、完全な自己滅却である より>
悪い行為を分析しても、そこからどこかで、何らかの善い結果が出るであろうことを知るでしょう。善い行為の中に、そこにも何かの悪があることを見、また悪のさなかに、その中にもどこかに何か善いものがある、ということを見る人は ── 働きの秘密を知った人です。
ここは、ドスーンときますね。この本すごいよやっぱり。
<135ページ 無執着は、完全な自己滅却である より>
無知な人びとを励まし向上させる、たいそう善い動機力です。しかしちょっと考えれば、そんなことは明らかに不可能だ、ということがよく分かるでしょう。善と悪とは同じコインの表と裏だというのに、どうしてそんなことがあり得ましょう。どうして、同時に悪を得ることなしに善を得ることなどができますでしょうか。完全というのはどういう意味ですか。完全な生活、という言葉自体が矛盾です。生存それ自体が、われわれ自身と外界の一切物との不断の闘争の、一つの現れです。
(中略)
理想的な幸福とは、この闘争のやむことです。しかしそのときには、生存もやむでしょう。闘争は生存そのものがやんだときに初めて、やむのですから。われわれはすでに、自分たちは、世間を助けつつ、実は自分みずからを助けているのだ、ということを知りました。他者のために行われる働きの主な効果は、われわれみずからを浄化することなのです。
ここも、すごくいろいろな場面にあてはまること。
<155ページ 無執着は、完全な自己滅却である より>
われわれのさまざまのヨーガは、たがいに矛盾はしません。何れもが、われわれを同一のゴールに導き、われわれを完全にします。ただ、どれを取り上げてもそれは、真剣に実践されなければなりません。秘密の全部は実践することにあります。
(中略)
それは感じること、意志すること、になります。そしてその意志することから、働くための膨大な力が生まれます。その力はあらゆる血脈と神経と筋肉を通って働き、ついにはあなたの身体全部が無私のヨーガの働きの道具と変わり、やがて完全な自己滅却と非利己性という、念願していた結果に到達するでしょう。
「実践すること、感じること、意志すること」って、"上品な沖先生" って感じで素敵。沖先生の言葉は、ちょっと猪木イズムっぽくて(笑)。
<168ページ 自由 より>
束縛を脱するたった一つの道は、法則の限定をこえること、因果律を超えることです。しかし、この宇宙への執着をすてるのは最もむずかしいことです。それのできる人はごく僅かです。つぎに挙げるのはわれわれの聖典に示されている二つの道です。一つは、「ネーティ、ネーティ」(これではない、これではない)と呼ばれ、もう一つは「イーティ」(これ)と呼ばれています。前者は消極的な道、後者は積極的な道です。消極的な道は最も困難な道です。それはただ、単純に立ち上がって「否、私はこれを持たない」と言えば心も肉体もその意志に従い、立派に成功する、というような、まさに最高無類の心と巨人的な意志とを持った人びとにのみ、可能な道です。しかしそのような人びとは非常にまれです。
人類の大多数は、積極的な道の方を選びます。束縛を断ち切るためにすべての束縛そのものを利用しつつ、この世界を通って行く道です。
これもやはり放棄の一種です。ただそれは、ものごとを知り、ものごとを楽しむことによって経験をつみ、心がものごとの性質を知ってついにそれらをすて、無執着になるまで、ゆっくりと、だんだんに行われるのです。
「解説ヨーガ・スートラ」にも「パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」にも出てきた「ネーティ、ネーティ」のお話。「イーティ」はとっても中村天風さん的です。
<199ページ カルマ・ヨーガの理想 より>
この世界に、永続する幸福を与えることができますか。海の中で、一方にへこみをつくることなしに波頭を上げることはできません。この世界の善いものの総計は、人の要求と貪欲に比例して始終同じです。それは増やすことも減らすこともできません。
これは、冒頭の問いかけがなぜか印象に残りました。
<204ページ カルマ・ヨーガの理想 より>
もしすべての物質分子が平衡状態を保っていたら、そのときそこに、創造のはたらきが起こるでしょうか。われわれは科学によって、それはあり得ない、ということを知ります。(中略)われわれが宇宙と呼んでいるすべての現象 ── その中にあるすべてのもの ── は、完全なバランスの状態を取り戻そうと奮闘しているのです。また攪乱がやってきます。するとまた、われわれは結合と創造をするのです。不平等はまさに創造の基礎です。同時に、平等性を得ようとして奮闘する力も、それを破壊しようとする力と同じように、創造の必要条件です。
「不平等は創造の基礎」というこのあたりの展開が、ものすごいんです。読みながら呼吸が浅くなっている自分に気がついた。
<207ページ カルマ・ヨーガの理想 より>
この世界の複雑な仕組みは、おそるべき機械仕掛けです。われわれがそこに手をつっ込むなら、捕らえられたらおしまいです。われわれはみな、自分はある務めをなし終えたら休めるだろうと、思います。ところが、まだその務めの半分も終わらないうちに、もう一つの努めが待っています。われわれはみな、この強力で複雑な世間という機械に引きづられつつあるのです。そこから抜け出す道は、二つしかありません。
一つは、その機械との関係を断つこと、機械は勝手に回らせておいて自分は傍らに立つこと、われわれの欲望をすてること、であります。それを言うのは非常にたやすいのですが、実行はほとんど不可能です。私は二百万人の中に一人、それのできる人がいるかどうか知りません。
もう一つは、世間のまっただ中に飛び込んで働きの秘訣を学ぶ、という方法であって、それがカルマ・ヨーガです。世間という機械の歯車から飛び去ることをせず、その中に立って働きの秘訣をお学びなさい。内に入って正しい形で働くことによっても、そこから出て来ることができます。この機械仕掛けの中に、出口があるのです。
(中略)
カルマ・ヨーガは、人が生まれつき持っている自由への愛以外に、なぜ働くための動機を必要とするのか、と問います。一般の世俗的な動機を超越なさい。
これまでいろいろな教えを読んできて、うちこが「カルマ・ヨーガ」に惹かれてしまう理由が、ここに凝縮されている。
うまくいえないんだけど、ブルーハーツの「トレイン・トレイン」の歌詞がグッときちゃう大人におすすめです。