うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

〈こころ〉の定点観測 なだいなだ 編著

旅行中に札幌の古本屋さんで入手した一冊。なだいなださんの本はここでも過去に「人間、この非人間的なもの」と「くるいきちがい考」を紹介していますが、この本はなださんがご自身を含む専門家十名の報告・分析・提言を集めたものです。10年前の、2001年の本です。体験をもとにしたエッセイ風の読みやすいものから講演内容レポートもあり、バラエティ豊かで面白かったです。

ここ数年で、ヨーガ以外の「こころの本」も読むようになりました。ごく自然な流れで周囲の人々の「こころ」の交通整理を日常的に気にするようになった。こころの交通事故には、パターンがある。
以前は「この人はどうして考えてもしょうがない悪条件をいっぱい探してきては、そこに身を浸そうとするのだろう」と不思議がっていたりしたのだけど、今では気がついてしまった以上は、周囲の人が疲れないように交通整理を心がけるくらいしかできない。
「悪条件探し」と「自分探し」というふたつの日本語は、わたしにとっては類義語。


ここに至るまで、いろいろなことがあった。本当に。これは、避けられない。いまは「変態的に楽しめるようになるまで、とことん見てみるか」という段階にいると思う。


ではでは、紹介行きます。全般、10年前の本のわりには状況が変わっていない印象です。


■若者の精神病理(成田善弘

<16ページ>
 誤解のないようにいま一度断っておくが、真の被害者はもちろん救済されなければならない。私自身もそのために一臨床医として応分の努力をしているつもりである。
 しかし、外傷論、虐待原因説、アダルト・チルドレンPTSDといった、いわば他罰的思想や診断名が世に広く流布し、あたかも流行のごとく用いられることについては、多少の反省が必要であろう。こういう思想や診断は現代的に見えて、病は自己の外部の悪魔や悪霊のしわざであるとする古代の疾病観に似ている。そこには「すべて悪しきものは自己の内部にあるのではなく外部からくる」という世界観がある。

ほんとうに「いつの時代だよ」と思うのです。病院に通う身体の中に、シャーマンを呼ぶマインドが入っている。医者も大変だと思う。



■自分らしく選ぶために(平松園枝)

<53ページ>
 このようなサイコシンセシス的視点を取り入れて医療現場で感じた傾向を見直すと、次のようなことが挙げられます。すなわち、与えられた目標をがんばってやり遂げる、あるいはなんとなくこなすというサブパーソナリティが多い。アサジオリの言うように多くの方が「サブパーソナリティを自分と錯覚している」。自己イメージが、小さく、人や自然とつながりのあるホリスティックな自分ではない。セルフに気づいていないので、事実をあるがままに感じ、とらえるのでなく、サブパーソナリティが身につけた「……すべき」「……するな」などの信条、比較競争、あれかこれかの二律背反的判断など、社会に適応する「外」の基準で判断し、動いている。「サブパーソナリティの意志」を「自分の意志」と錯覚して、「外」の権威に自分を預け、自分の本当の喜びによって生きていないため、いきいき感がない。潜在的なすばらしさが人生の目的、自分らしさにつながっていない。

叩きたい人には旬のホリスティックですが、ほんとそのとおりだと思います。「外」の権威に自分を預けることをまず、やめないといけない。「孤独耐性」ね。


<57ページ>
性善説と現実のギャップを埋めることができて、人間は、本来すばらしい存在なのだと実感するのです。

性善説と現実のギャップを他人のせいにするってどういうことよ、っちゅう話ですね。



■悩みぬいて生きるために(石附敦)

<81ページ>
 もともと、日本人は、主体的に判断して固有の意志をもって対処するということが苦手であり、他の影響を受けやすいこともあって、情報にまどわされやすい。そのうえ、科学の発達と技術の進歩によって得た知識とマニュアルを手がかりに、そつなく、無難に生きることをしようとする価値観に重きをおいてきた。そのつけが、いま私たちに廻ってきたように思われる。

「そつなく、無難に生きることをしようとする価値観」の人材は、意外と逞しかったりします(自分の周囲比)。余剰エネルギーを仕事に回しやすいのです。なので、わたしはここについてはあまり否定的ではない。
それよりも、あふれた情報を眺めているだけのくせに「無難じゃなく生きている」風の、手法先行のマインドを持った人たちのほうが厄介。


<96ページ>
 現実を確かめながら行動する力は、幼少期から小さな失敗や挫折を繰り返しながら、そのたびに、信頼できる親やまわりの人たちから、許容範囲をあいまいにされず、明確な判断を示され、こころをつくして、叱られたり、なだめられたり、励まされたりして、育ってゆくものである。

許容範囲を示す表現をすることにエネルギーを使うこと。それが愛だと思いますよ。



■いじめと「心の教育」(小林司

<109ページ>
 母性愛は古代からずっと続いてきたのかと思うと、そうではないらしい。エリザベート・バダンテールのよれば、一七・一八世紀のフランスではまだ母性愛が発達しておらず、そのために一歳未満の幼児死亡率は二五%を上回っているそうだ(鈴木晶訳『母性という神話』)。文明の進歩によって「母性愛」が生まれ、ルソーが「母性愛」という単語を初めて作ったのだという。
 サルを群れから隔離して、おりの中で孤立させて育てると、視覚その他による愛の教育が行われないので、赤ちゃんを生んでも可愛がらないという実験結果がある。生まれてから一度もおいしい料理を食べたことがない人が美味しい料理を作れないのと同じく、愛されたことがない人は愛を知らず、自他を愛することができないと言われている。精神分析学者エーリッヒ・フロムが述べたように、その意味で、愛は一種の技術であり、技術は学習によって習得されるものだ。つまり、愛については教育が必要なのである。

愛は一種の技術。かぁ。



■<いくつもの私>と<ほんとうの私>(香山リカ

<168ページ>
 顔の見えない匿名コミュニケーションで別の私を気軽に楽しむのではなく、その世界の方がいつしか現実以上にリアリティを獲得し、<本当の私>までがそちらにシフトして、実際の生活の中での自分への実感が乏しくなってしまう。まだ自我が完成していない少年だけではなく、おとなまでがこういった解離性障害に近い事態に巻き込まれるとは、だれも予測できなかったことです。

巻き込まれまくりの人が、「リア充」って言いたがる。


<173ページ>
 何が現実で何が虚構か。どれが<本当の私>でどれが<ニセモノの私>なのか。そもそもこんな問いをたてることじたい、意味があるのかないのか。おそらくこれから数十年間は、精神科医など心の問題にかかわっている者はもちろん、教育関係者、作家、マスコミに携わる人、いえ、現代を生きるすべての人がこれまでの常識や教科書を捨て、真剣に考えなければならない時代になるのではないでしょうか。

ここでの香山氏は、先輩を多く交えた参画本なので控えめです(笑)。



■こころに掛かっていること(滝川一廣

<179ページ>
 虐待防止の啓発的な集会では、ときとして虐待を受けた子どもたちの写真やスライドが提示されている。いたいけな子どもの全身に無数の疵(きず)や痣(あざ)。惨殺と呼びたいような屍体写真。参加者は言葉を失う。これがまさに《虐待》である、私たちはこうした事態を放置できようかと、強く訴えられる。
 もちろん放置できない。また、外傷で入院する子どもたちのうちに親の暴力からのものが想像以上に潜む事実を報告したケンプらの仕事(一九六二年)によって虐待の「医学的発見」がなされ、この衝撃が米国における虐待防止運動の端緒となった歴史を振り返れば、虐待防止のキャンペーンがこのようなかたちで始められても無理ないかもしれない。それはわかる。
 しかし、あえていえば、こういうものから虐待という現実のイメージが刻印づけらるのはどうなのか。《虐待》の用語とおなじく、これらの映像もどぎつい。そして、このイメージのまま、「心理的虐待」も虐待である、ほったらかしや無視も「ネグレクト」という名の虐待であると、《虐待》の概念はケンプの報告よりはるかに拡張されている。現在、社会問題となっている虐待増加には、概念の拡大という側面がはらまれている。

わたしも、どうしてもマーケティング手法的でいやだと感じてしまう。


<184ページ>
 さしさわりのあることから述べてみよう。これらの問題へのマスメディアが煽る関心のあり方には、あえていえば、異常性への興味という部分が潜んでいる。子どもがこんな凶行を働くとは! 親が幼いわが子をいじめ殺すとは! 社会正義の衣の下にちらちら覗く、ことの異常性に色めき立つようなまなざし。出来事の細部を舐めるような報道。宮崎勤の事件から神戸の事件まで、人々はプロファイリングゲームを楽しまなかったか。私ども精神科医はそのゲームの一翼を担わなかったか。 

(中略)

 異常な自称への興味が悪いというのではない。人間とはそういうものに惹かれる。私もトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』を面白く読む。ただ、異常きわまりないサイコサスペンスが好んで読まれ、決して激増しているわけではない少年殺人や虐待死の報道がメディアにあふれる時代と社会とはどういうものか、内省は必要だと思う。いま私たちはどこにいるのであろうか。

たとえば「お笑い」だと、それを笑えるこころの技術のありなしが「笑い声」で確認できるのだけど、異常性案件の場合は本当に高度だと思う。「このギャグはどうして笑っていいのか」という試験をしてから見るような、そんな慎重さが必要と思う。


こころの本を読むと、少しスッとする。
ヨガでほどよいアジャストを入れていただいたような気分になる一冊でした。

“こころ”の定点観測 (岩波新書)
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