うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

身体論集成「2.身体とコスモス」 市川浩(中村雄二郎 編)

以前紹介した本の第二章です。曼荼羅や風水、都市空間などを題材に展開。古来の語源の話も出てくる。
この本は3冊に分けたほうがいいのではないかと思うくらい、バイキングみたいに要素が多い。全般ややこしめな本ではあるけれど、「コスモスとカオス」のところは、ヨガをする人に興味深く読める章。
「身体論を経験とともにオタクっぽく運動神経的に関連付ける」というタイプの人には(わしです。はい)、著者さんのリズムが途中からクセになってくるかと思うのだけど、論文調すぎて普及はしないだろうなぁ、という構成。決して読みやすくはない本というのも、いいもんだなと思う。脳がやったことのないアーサナをとろうとするような、呼吸を合わせようとする緊張感やムズムズ感が、いい。


ややこしいので、5箇所だけ紹介します。

<161ページ 身体による世界形成 より>
中心化する自己が人を愛するというパラドックス。自己化しきれない他者の自発性を引き受けるということは、他者の闇をとおして、他有化(他者によって所有)されえない自己の闇に気づくことでもある。他有化されえないものは、また自有化(自己によって所有)しきれないものでもある。神(大文字の他者)をとおして人を愛するという表現自体、<他者>を愛することによって出会う自己の闇と他者の闇の開示 ─<他者による顕身>─ のモデルではないだろうか。
 もしこのパラドックスが正しいなら、<神の眼>をとおして見るとは、決して超絶的な観点で世界を見るといったスタティックな認識でありえないだろう。おそらくアクション(能動)とパッション(受動)が交叉する最もダイナミックな認識のモデルとなるはずである。これは<神の眼>についての、きわめて興味深い関係モデルであり、ブーバーの考える<神の眼>、というより<神との応答関係>はそれに近いように思われる。

Wikipedia-マルティン・ブーバー」を参考にさっと読むといいかも。「スター・ウォーズ」でも「なかなかまとまらない商談」でも、他者の闇をとおして自己の闇に気づくところからがはじまり、ね。

<163ページ 身体による世界形成 より>
プラトンは、万葉の無名の作者は、釈迦牟尼は、どうしていまだに生者以上に生を支配する力をふるうことができるのか。強制によってではない。われわれを招き、われわれのうちに棲まうことによってである。死者の無力とは強制する力をもたないというにすぎない。魅する力・畏れさせる力、つまりわれわれの自発性のまま呪縛する力は、強制にもまさる力なのである。
 いかなる権力も強制することはできても、愛させることはできない。自発性に呼びかけ、自発性を魅惑することはできない。画家が樹を見るとき、自分が見ている樹によって見られているのを感じはじめ、<見えるもの見るもの>としての自己と、おなじく<見える見るもの>としての樹の交錯に魅せられるように、われわれは死者を愛し、畏れることによって<見えない見るもの>としての死者と入り交い、共存する。死者は、生者と死者という抽象的な関係しかもたなくなったとき、第二の死を死ぬのである。

先日紹介した「権威と権力」にも書かれていたけれど、その権威の表現として「われわれを招き、われわれのうちに棲まうこと」ってのは、かなりすてきな表現だなと思った。
「第二の死を死ぬ」の教えは「パーマネント野ばら」にも出てきてた(感想文では紹介していません。読むべし)。

<204ページ コスモスとカオス より>
 ピアノを弾く人は、弾きうるという生理的条件によって鍵盤に開かれており、社会的・歴史的に伝承された練習法によって、鍵盤世界を開き、個別的にその世界を肉化する。練習するにつれて、鍵盤は身の活動可能性に組み込まれ、<……しうる>ものの領域が拡大される。ピアノを弾ける人は、弾くという現実的統合を実現していないときにも、潜在的統合として鍵盤の自由な処理可能性を肉化している。そしてそれとともにさまざまの仕方で、社会的・歴史的に伝承されてきたピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の蓄積を身のうちに沈殿し、肉化しているのである。

「練習によって、○○の自由な処理可能性を肉化する」ことのあとに「社会的・歴史的に伝承されてきたピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の蓄積を身のうちに沈殿し、肉化している」と続くのがいい。
自分の中に肉化しながら、外に開かれていく。まるで「凝念のあとの静慮」のよう(参考:佐保田先生の「ヨーガ入門」後半)。

<227ページ コスモスとカオス より>
 人間は秩序ある統一として大宇宙(マクロコスモス)を創建するとともに、みずから小宇宙(ミクロコスモス)とみなす。エリアーデによればその根拠はつぎのとおりである。人間は神の創造の一部をなす。そして人間は宇宙のなかにみずからが認識する神聖性を自分自身の内にも発見し、「その生命を宇宙の生命に相同なものとして定立する」のである。その結果、結婚は天地の聖婚とみなされる。女性は大地に、穀物の種子は精子に、耕作は夫婦の結合と同一視される。脊柱は宇宙の柱─世界軸に、臍あるいは心臓は世界の中心に、腹あるいは子宮は洞窟と、腸は迷宮と、呼吸は機織りと、静脈・動脈は日月と、眼は太陽に、両眼は日月に、骨は石と、毛髪は草と同一視され、宗教的価値を保持する。

ミルチャ・エリアーデ」は第一章から出てきます。その結果〜以降はリグ・ヴェーダウパニシャッドにある内容なのだけど、先にこういう要約文を見ておくと読みやすくなりますね。

<250ページ 右─左と超越 より>
(多くの場合、右はプラスの価値を持ち、左よりも高く評価される、という例のあとに)
 とはいえこの価値関係は完全に固定しているわけではなく、中国では戒壇をめぐるのに左遷の法をとる場合があり、日本でも禅宗の巡香のときは左遷する。その場合も、ほかの行動は右遷するというから、基本は右遷なのであろう。ところが古代日本では左大臣が上位であり、右大臣が次位である。左は神秘的な方向として右よりも重んぜられ、「左手の奥の手」といわれる。「ヒダリ」の語源について、『岩波古語辞典』は、南面したとき東の方にあたるのでヒ(日)ダ(出)リ(方向)の意か、としている。もしこれが正しいとすれば、太陽神崇拝と関係して左が価値化されたのかもしれない。そして中国思想の渡来とともに右優位の思想が入り、重層化したのであろう。

これはちょっと、おもしろかった。


身体論の本を読んでいると、西洋の哲学者の名前を多く知ることになる。なんでだろう。

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