ヨガ仲間が貸してくれました。掲示板での活動を発端に書籍化されたものだそうです。正式には「自殺の自由化 自殺という行為を悪く言うべきではない」というタイトルで、書籍自体はもう絶版ですが、全ての内容を以下のサイトで読むことができます。
タイトルこそ刺激的ですが内容は示唆に富んだものです。
なかでも、あとがきの「インターネットの常用者は思索をしなくなる」にある指摘にはまったくもって同感と思うことばかりです。先に、このあとがきにあった指摘で印象的な部分を紹介します。
1998年3月21日に、この本をどうして書籍化したのかという理由について語られています。
「最近の若者は、本を読まなくなった」とは常々、以前から言われて来たことであるが、情報量とその多様さの点だけ言えば、むしろ旧世代よりも多くの情報を読んでいるかもしれない。だから問題となるのは情報の量や多様さではなく、たったひとつの問題を『よそ見せずに深く掘り下げる』という能力の低下である。
ところがインターネットのような媒体では、ひとつの問題を突き詰めないうちに、その「よそ見」や「目移り」が、ネットサーフィンと称して簡単に行なわれてしまう。
その結果、特に個人ページで掲載される内容は、その発言も討論も、そこに煮詰まった凝縮度や、迫力がほとんど存在しない。
むろん、その分「何事も気楽になる」というメリットが主張されるのであろうが。
しかし、かつての哲学者たちは、たった一冊の本について何年も考え、神秘家たちは、たった数枚しか残っていない経典の謎に自分の一生をかけてきた。たとえば東洋の禅師たちは、たった一片の法句について何年もかけて掘り下げていった。
かつては、今のように情報をグルメ的に「食いあさる」事が大切だったのではなく、情報は、自分の『思索の為の刺激』なのであった。
情報を扱う姿勢の重心は、あくまでも『思索』そのものにあり、情報を「むやみにコレクション」する事や、情報を「使い捨てる事」に重心があるのではなかった。
「タントラへの道」という本で、チョギャム・トゥルンパ氏が「精神のコレクション」「精神のショッピング」といった表現をされていたのですが、ここにも「身をもって経験しないこと」「リアルから程遠い情報との接触」に対する指摘があります。
「よそ見せずに深く掘り下げる」という運動能力について、実践ではなくテクニックの情報が先行することを加速させる、ネットというメディアの恐ろしさを感じます。
<自分や相手の文章をプリントアウトする事のメリット より>
敏感な人々ならば感じることが出来ると思うが、他人の書き込みなどを、画面上で流し読みするのと、いったん紙の上に印刷して見るのとでは、同じ文章であるにもかかわらず全く「違う印象」を受けたり、文章の本当の趣旨を読み落としていたりする事に気が付くことがあるに違いない。
そして、それは、単に書体や行間の変化によるものではなく、情報が「物質化したかしないか」の問題のように感じられる。
私が受ける印象では、インターネット上にありがちな、密度や凝縮度のない発言、つまり、しっかりと煮詰められていないような発言が、これほどまでに氾濫している大きな原因の一つは、他人や自分の投稿を、「印刷して眺めることをしないからである」と推測している。
書き込んでいる最中に見ている画面上では、自分が「まともな事」を言っていると思い込んでいても、いざ、印刷してから再度自覚して見ると、自分がひどく「馬鹿げた事」を言っている事に気づく事も多いはずだ。
自分の発言が、いつでも機械の内部で、簡単に処理できる磁気情報にすぎないのと、印刷された物質次元の「証拠品」として自分の手元にあるのとでは、必然的に(人の無意識下での話であるが)その扱い方には、大きな違いが出て来る。
むろん、たとえプリントアウトをしたところで、ゴミ箱へ捨てれば、確かに見かけ上は、それで、しらんぷり出来るのであるが、同じ『ゴミ箱』でも、画面上の「俗に言うゴミ箱」と、実際のゴミ箱に捨てるのでは、捨てるという行為にまつわる「心理的効果」も各段に違うように思われる。
たとえば「別れを告げる」という意思伝達をとっても、口述>手紙>メール で伝える側の重みもずいぶん違う。なにげない人間関係には「終わりらしい終わり」はないけれど、その試合の中のラリーを切り出したものと同じだと思う。それを、電子テキストでするということは、なんとライトなことだろう。
通信上での情報開示や発言は、それがあまりにも「可塑的」であり、いつでも簡単に消したり移動したり編集が出来る。
それがある種の「気楽さや便利さ」をインターネットに吹き込んでいるのも事実だ。
だが、その一方では弊害として多くの人々が、「毒にも薬にもならない情報の発し方」と「受け取り方」をしているように思われたのである。そこで、逆に情報が自分や他人にとって「毒にも薬にもなり得るようにする」ためには、『考えたいページや、発言したいページ』を見つけたときには、面倒がらずに『必ず紙にプリントアウトする事』を、ぜひお勧めする。
この本の元になった掲示板の時代にはいまのようにブログは普及していなかった。今は、「毒にも薬にも」以上に「ファッションを披露するような日常情報の発し方」というものがあまりにも多く存在する。「これはプリントして読みたい」と思うような情報は、今後どのようにフィルタリングされたりスコアリングされていくのだろう。Googleさんが毎日考えているようなことだ。
以下、本編より。
<6ページ はじめに より>
本質的な問題は、スキャンダルを追いかけて朝刊や夕刊や週刊誌で商売をしている類のマスコミが立ち入れるような問題ではない。
なぜならば、これは報道や治安の領域の問題ではなく、哲学の課題だからだ。
はじめの段階でこのように宣言されています。
<15ページ カルト法とは、なんぞや? より>
私にとっての『カルトの定義』とは、
民主主義的な多数決によって決めるような問題ではない。私の定義では、もしも人が何かを「疑う事もなく信じたら」、
その事自体がカルトなのだ。
24時間、カルトだらけの人もいるかもしれません。カルト・ショッピング。
<20ページ ただしインターネットには致命的な『病理』があるより>
スイッチひとつで実現できないプロセスにはいろいろな楽しみの要素がある。
そして、デジタル技術が果たした一番の功績は「スピード処理」だが、
それが作り出した最大の功罪は、「スロー処理」であるが故に生まれてくる。
さまざまな『障害の中にある創造の楽しみ』を奪った事だ。
(中略)
「物質」と『物体』の違いとは、つまり、その固体のアウトラインの明確さと安定性の違いだ。「物質」は可塑的で用途が多様。『物体』は安定していて、用途が限られる。
紙に書かれた文字や、印刷された文字は、0.5秒で消すことは出来ない。
それを消すためには、燃やすなり、消しゴムを使うなり、破るなりの行為が必要になる。
それは固有の物体として存在している。しかし、デジタル信号の記録は、スイッチひとつ、あるいは、たった一つの磁石で破損してしまう。
行為、運動。この絶対的なエネルギー交換量の減少は、不安定さをもたらす。これは、日々感じる。携帯電話がなかった頃は、好きな子の「自宅」に電話をしたものだ。相手の生活を思いっきり想像しまくってね。想像しているうちに、まるで雪がしんしんと積もるように、自身の気持ちの重量を感じたりしていたのだと思う。
<44ページ 投稿素材『医療現場の経験者』 から>
非常に、わかりやすいたとえの一例ですが、仏教の開祖である釈尊は、宮廷にいたときには、おそらく現代で言うならば、完全な「うつ状態」にあり、独りでふさぎこんで、人生の意味や生命について悩んでいたことでしょう。
ここはおもしろかった。たしかに、欝だ。木の下で延々なにやってんだ、っつう話です。
<54ページ 死についての個人的メモ 仮の結論と疑問符 より>
いろいろ考えると、どうやら、生や社会というものが物質や知識や経験の、
「蓄積量やその質」によって評価されてきた「習慣」と誤解が根底にあるようだ。
(中略)
つまり、我々が日ごろ全く疑うこともしない盲信的な信仰であるところの
「存在は善だ」というものこそが、一度は「完全な解体」をされて、
深くまで解析されてみるべきだと私には思えるのである。
自身の「存在」に「善」の質量を感じられるだろうか、ってあらためて意識してみると、ない。まったくない。なにかこうして書き物(打ち物)などをするから、なおさら意識しなくなる。
<78ページ 殺人を悪とする側のその言い分について より>
日本国民は決して「殺戮は、もうこりごりだ」と実感したのではない。
そうではなく彼らは『負け戦』にこりごりしたにすぎない。
もしも太平洋戦争に勝っていたら、「日本万歳!」と叫んでいたことだろう。
なにしろ、自分の国が全く攻められない時、つまり他のアジアの国に攻め込んでいる時には、日本国民は自国の神聖さと天皇の栄誉を称えて歓喜しているのだから。
これで一体どこが「戦争や争いが嫌になった」と言えるのだろう??。
なんでいちいち「勝つ」「負ける」と言うのかという話で、「殺る(やる)」「殺られる(やられる)」なんて言っちゃったりする人もいる。「行為する」「行為しない」ではなぜ実感できないのだろう。「はたらく(はた を らく にする)」ことから意識が最も遠いところにあるように思う。仕事の場面では、戦争になぞらえる言葉は、ふさわしくない。
<83ページ 殺戮なしには自然界の秩序は存在しない より>
あなたにとっては「普遍的な意味で命が大切」なのではなく、
自分の生命の利害関係にかかわる対象や、
愛着を持った対象の命だけが問題になるわけだ。
そうなの。ゴキちゃんが近くで生きていると、うまく寝られないの。
<87ページ 思考や記憶という身体 より>
心とは、まるで物体や肉体のように、文字通り、「心が傷付き」、時には「心は死ぬ事もある」ということなのだ。
すなわち、一人の人間や感情や記憶や習慣的な思考とは、耐性や自己保存機能を持った「身体」なのである。
これ故に、他者から見ていたら、馬鹿げた口論も殺人に発展するわけであり、他人から見ていたらささいな心配事も、膨れ上がって殺人や自殺に発展するのである。
すべて、それらは、肉体と精神の「生存欲」を基盤にして生まれるものである。
「共存欲」というものは、存在しない。それは「戦争」の近くにある。だからこそ、共通言語や共通の感覚を探す努力を怠ると、危険なことになる。探すことをやめないこと、続けること、終わりを求めないこと。ゴールがないことを認識すること。ってのを多くの人が「愛」と言っているのだと思う。
<82ページ 少年犯罪の背景 鈴木方斬:記 より>
現場で経験的に迷うのは人間の学習になるが、経験する前から、あれこれと推測する為の情報や物事の「前例」に関する情報があると、あなたは経験もしていないうちから「物事の先読みをする」という悪癖が起きる。
最悪なことに、情報がある前提になってくると「前例がないと動けない」人が量産される。
<122ページ 自殺について考える空間の『開設のきっかけとなった文書』より>
あなたも人類も、生物も、天体としての宇宙そのものにとっては、いてもいなくても、まったく論外であり、宇宙の存続には関係ない。
そして、これこそが、本当の「現実」というものであろう。
人生の貴重な時間を〜 という表現をする人がいるけど、人生自体が貴重なのではなくて、そんなに美しい前述をしなくても「わたしはそんな醜い時間の過ごし方はいやだ」でいいのだと思う。そんなにロングランにしたり壮大にしなくていい。「その瞬 "間" の使い方は、いやだ」でいいんだ。
<124ページ 自殺について考える空間の『開設のきっかけとなった文書』より>
科学も、労働や教育の社会システムも、すべては、『本来自分がやるべきことを、他人や道具に代行させたり、自分にできないことを他人や道具に代行させる』という事で成立している。
本来自分がやるべきこと。本来自分の足がやるべきこと。電車が遅れたといって文句を言うのはおかしいね。走らなきゃ!
<135ページ 情けないことに、人間の種類はたったの4種類しか存在しない(方斬) より>
(要約)
- 1:生きることは何にも増して重要である。
- 2:ただ生きているのは動物と同じであるから、学習して楽しむ事が大事だ。
- 3:学習にも楽しみにも興味はなく、ただ生きている事それ自体すら苦しい。
- 3A:実際は多くの物事を楽しめる精神的資質を持ちながらも、慢性化した特定の思考が障害を形成している場合。(カウンセリングおよび薬品で解決される)適切なカウンセリングで2または1の人生観に復帰する。
- 3B:陥った問題が哲学的問題、すなわち「人はなぜ生きるか」であった場合。2の人生観は軽蔑の対象。1や2のような人生観しかこの世界に存在しないが故に、世界と自分に絶望している。この状態は自殺への「正当な理由」となり得る。
- 4:興味や楽しみや学習の対象は特に目立って何もなく、かといって、ただ生きていることそれ自体も別に句というほどではなく、なんとなく漠然とした、(強烈な不満もない)生活習慣の中で生きてしまっている。
うちこは2がベースだけれど、「動物」から学ぶことも大切だ。ってのがヨガね。毎日動物のまねをしている。
「人はなぜ生きるか」になっちゃうのは非常にヨガと反対のところにある気がします。毎朝目が覚めて、意識と一緒に「ああ、今日も生きてたわ」という感じの生活が自然だと思うので。生きようとも思わなくなる。
<156ページ 生きるとは、飢えて苦しみ、もだえて動くのみである。たとえそれが宇宙の「どこの誰」であっても より>
あなたは全く気がつかないでいるが、人間が利用しているあらゆる物理法則は、『原子レベルでの苦痛』が存在するから応用ができるのである。
「原子や電子に苦痛などあるはずもない」とあなたは思っているだろう。
だが、苦痛がなければ動きというのは決して存在しないと言う原則がある。
原子レベルでの苦痛、それは時空間の【歪み】として経験されている。
量子力学まで及びます。時空間と原子のダンス。
自殺について考えるというよりも、ネットについて考えさせられる本でした。
毎日、身体とともに行為して運動する意識を殺している気がします。毎日が自殺です。