うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(再読)


ここ1ヶ月ほど、ギーターについてさまざまな局面での解釈を思いなおしていました。ギーターの解説本の役割も果たすこの書はわたしにとって「ものさし」のような役割をしてくれる本で、以前読んだときにメモしたことまた違う部分が心に刺さっている自分の状況を見直すのに役立ちます。半分くらいは全く同じ箇所をメモしていることにも驚きます。
読み方のアドバイスとしては

  • さまざまな仕事のギャップでお悩みのかたは64ページのあたりを読まれるとよいかなぁ、と思います。
  • 献身しているつもりが依存していたとか、そういうことでお悩みのかたは136ページのあたりを読まれるとよいかなぁ、と思います。
  • 「だったらこういうことなんですか?」という調子でこたえを求めずにはいられないかたは、204ページのあたりを読まれるとよいかなぁ、と思います。

といったところ。今日は上記の部分を除いて紹介します。

<89ページ 義務とは何か より> 
バガヴァド・ギーターはしばしば、人生における生まれと地位に応じた義務のことを説いています。人生の生まれと地位は、この世のさまざまの活動に対する各個人の、心理的道徳的態度を大きく決定します。ですから、われわれが生まれた社会の理想と活動にふさわしく、われわれを向上させ高貴にするような仕事をすることが、われわれの義務です。しかし、同じ理想と活動がすべての社会と国々に通用するものではない、ということは特に心にとめておかなければなりません。

ここは以前もメモしていましたが、その後に旅行をした国や国内のさまざまな職業上の理念、世の中で変化する価値観、世代間・地域間ギャップと「聖書や教えの存在」について考えることが増えて、その上でまた深く沁みてきました。



このほか、いまのタイミングではこの部分に新たに付箋メモを貼りました。

<17ページ 人の性格を形成するカルマ より>
 皆さんはおっしゃるでしょう、「どう働くか、などということを学んで何になるか。この世では誰も彼もが何とかかんとかして働いているではないか」と。しかし、エネルギーをチビチビ浪費してしまう、というようなこともあります。

この「チビチビ浪費」がくせものです。みなさんは何を想起しますか? わたしはSNSサービスの存在と、それを心配する小中学生を育てる親(=わたしの知人友人世代)からの相談を想起します。人格形成という面で。



<30ページ 人それぞれが、自分の置かれた場所にあって より>
 われわれの前には二つの道が開かれています。── 真理に向かってはたった一つの道しかなく、他の道は全部間違っている、と考える無知の人々の道と、われわれの心の構造、すなわち存在のさまざまの段階に応じて義務と異なる、ということを認める賢い人びとの道です。

先日、あるかたが「ザ☆王道」の人生と「(日本では)王道ではないような道」の迷いをお話してくれたのですが、そもそも「統一のしかた」の話ばかりしている環境では「多様性を認める」ということを学ぶ機会が少なくなっています。わたしたちはそういう悩みの発生する環境設定のなかにいます。(参考



<32ページ 人それぞれが、自分の置かれた場所にあって より>
 われわれの第一の義務は、自分自身を憎まない、ということです。

このあと「なぜなら〜」と説明が続くのですが、あえてここのみ紹介します。トイレに貼っておきたいフレーズ。



<49ページ 人それぞれが、自分の置かれた場所にあって より>
 人びとはしばしば、自分がなしとげる力を持たない事に携わります。その結果、目的成就のために他者を欺くのです。それから、すべてのもの事には時の要因を考えにいれなければなりません。あるときには失敗となることが、別のときには大成功となる場合もありましょう。

日本には明確な職業カースト制度はないものの「餅は餅屋」という表現があります。餅屋でないところに餅をオーダーすると「餅ふう」のなにかが納品されたりします。そういう欺きは、些細な単位でたくさん発生しているように思います。



<69ページ 働きの秘訣 より>
 解脱とは、完全な自由のこと、つまり、悪の束縛から解放されると同時に、善の束縛からも解放されることなのです。

「善の束縛」にも気をつけなければいけない。ヨガの世界はこれが多いので、わたしはよく「ヘルシー・ハラスメントだー!」といってぷりぷりしています(怒るんか!)。



<125ページ われわれは、自分を助けている より>
私は、もし罪と罪びとをほんとうに区別することのできる人がいるなら、彼にお目にかかるためにはどこまで行くこともいといません。そう言うことはやさしい。もしわれわれが性質と実体とをはっきりと区別することができるなら、われわれは完全な人間になれるでしょう。そうなるのな容易なことではありません。

ここはまさに夏目漱石の「こころ」で先生が「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。」という場面そのもの。びべたんも同じこというとる〜。



<146ページ 無執着は、完全な自己滅却である より>
最大の弱さはしばしば、最大の善であり強さであるようなふりをするものです。誰かが自分に頼っている、自分はひとのために善をなすことができる、と思うのは一つの弱さです。この信念はわれわれのすべての執着の母であり、この執着から、われわれのすべての苦しみが来るのです。

もう、ほとんどすべての文章が夏目漱石の「こころ」の先生のセリフに見えてくる不思議。今日はもうだめだぁ。



<182ページ 自由 より>
もし皆さんが賞を欲するなら、同時に罰をも覚悟しなければなりません。罰をまぬかれる唯一の道は、賞をあきらめることです。

「よござんすか。あなたがもし賞を欲するなら、同時に罰をも覚悟しなければなりません。」と、「こころ」の先生が言いそう……。



だいたいいつも脱線するけど、まさかこっちに行くとは自分でも思わなかったなぁ。
とにかくこの本はとてもおすすめで、ギーターとあわせて読みたい一冊です。
このほか、インド思想界きってのイケメン・びべたんの本の紹介はこちらにまとめてありますので、どうぞ。