うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愛について ― 人間に関する12章 五木寛之 著

タイトルだけ見るとなんだか「愛の水中花」的な(五木氏の作詞なんですよ)、夜っぽい印象を与えそうな一冊なのですが、その章立ては自己愛、同性愛、家族愛、人間愛、小さいものへの愛、恋愛、仕事への愛、性愛、物への愛、言葉と愛、静かなる愛、新しい愛、といった具合で、多角的にさまざまな「愛」について語られています。
「あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛♪」で、やっぱり愛の水中花でした。


という話ではなく。
この本のアウトラインについては、あとがきにある小川洋子氏のコメントがわかりやすいです。

<249ページ やっぱりこの世界は、生きるに値する  小川洋子 より>
 本書は正しい愛のあり方を記したガイドではなく、読み手の心を映し出す鏡のような書物である。本書を読めば、そこに映る自分自身と向き合うことができる。決して否定はされないし、無理に矯正もされない。すべてが受け入れられている安心感の中で、自分が抱えている愛の感情と、静かに対面できる。
 対面しながら私は、この世に、愛という名のレッテルがついたものなど最初から存在せず、ただそれを愛と感じる心があるかないかの違いではないだろうか、と思うようになった。同じ人物、同じ出来事に出会っても、ある人にとっては愛あふれる経験となり、また別の人にとっては、ただの通りすがりにしかならない。
 愛を求めすぎる人は幸せになれないと言われる。その人は愛に対して欲が深いのではなく、愛を感じ取る心の働きが弱っているだけなのかもしれない。

「愛を求めすぎる人は、愛を感じ取る心の働きが弱っている」というのは、本当にそのとおりだと思う。

<67ページ 子どもへの深い愛 より>
 真宗の中興の祖といわれる蓮如は、暮らしの中に念仏を持ち込み、日々の生活でいかにその信仰を生かしていくかということを教えた人です。彼の非常に多くの人間的なエピソードや伝説が口から口へと語り伝えられ、その影響力が五百年を経たいまでも各地にしっかりと根付いています。蓮如は何度も結婚して何度も妻と死別するという家族の縁の薄い人でした。
 そして、結婚するたびにたくさんの子どもが生まれます。何度も何度も妻を持ったこと、信じられないくらいたくさんの子どもを生ませたということで、スキャンダラスな批判もありますが、蓮如は子どもに関してひときわ深い愛情を注いだ人であるということは疑う余地もありません。若いころ、部屋住みの貧乏な暮らしの中で、背中に赤ん坊を背負い、冬の寒い庭でオムツを一生懸命洗濯していた、これは有名なエピソードのひとつです。


(中略)


間引きが日常茶飯事に行なわれていた農村で、蓮如の影響が色濃く残っている北陸、中国地方の真宗王国といわれるところでは間引きが他の地方に比べて著しく少なかったといわれています。そこには蓮如上人を蓮如さんとさんづけで呼んで、自分たちの精神的父親のように敬愛し、その生き方を手本にする風潮が残っています。
蓮如さんは赤ん坊を大切にする人であった。子どもが大好きであった。だから自分たちも、子どもを宝物のように思おう。そしてなにがあっても、子どもは自分の命に代えても守ろう、育て上げようという意識が心の奥底に流れていたのではないかと思うのです。

覚えておきたいエピソード。

<73ページ 二つの感情の混沌の中にある家族愛 より>
親鸞の弟子の蓮如親鸞の言葉を背負いつつ、家族の絆というものを非常に大切にした人でした。
 片方で「父母のために念仏をしたことなし」という言葉を信じ、もう片方で、自分の父母、子どもを大切にするという気持ちを抱く、その二つの混沌とした感情の中に、実は家族の本当の愛というものがあるのだと思います。それは情愛といったほうがいいかもしれません。
 愛はともすれば、理性に傾き、差別をしてはいけない、隣人を愛さなければいけないといった義務感めいたものがつきまとってきます。しかし、情となると、もっと本能的なもので、思想や信念や教条に命じられるのではなく、そうせずにはいられないといった思いにつき動かされるものです。戦後、情というものを封建時代の遺物、歌謡曲的、演歌的なものとして私たちは長く軽んじてきました。しかし、いま、現代人の心のよりどころとして必要なものは、むしろ愛よりも一見古めかしい情のほうではないかと思うのです。万葉の歌人は「こころ」という言葉に、「情」という語をあてました。心と心を結ぶものが本当の意味での「情報」なのです。離れた心と心を満たすものとしての情が大切なのではないのか。いまは家族の愛というよりも、むしろ家族の情というものを大事にしていかなければいけないのではないか、とこのところしきりに感じているところです。

同じようなことを「他力」という本でも書かれていましたが(101ページの引用箇所)、『心と心を結ぶものが本当の意味での「情報」』という、この著者さんの考え方が大好き。

<76ページ いま、必要なのは、「愛」ではなくて、「愛情」ではないか より>
 いつも思うのですが、いまの時代は、愛よりも愛情というものが大事なのではないかと感じられてなりません。ただの愛ではなくて、下に情がつくことで、どういう違いが出てくるかといいますと、そこで心の乾いた状態から、湿った状態に変わってくるような気がするのです。
 愛といいますと、なにかある種の理知的な人間の感情という感じを受けます。しかし、それに情が加わることで、みずみずしくそして潤いを帯びた、生き生きとしたものに変わっていく。

たしかに、心の湿度の感覚というのは、あるものだなぁ。

<105ページ 世界ってどうしてこう綺麗なんだろう より>
 フランクルは後に、「人生の幸福は、どれだけの感動を得たかによって決まる」という考え方を持つに至るのですが、それは、アウシュビッツのささやかでかけがえのない芸術的体験に根ざしているのではないでしょうか。五感だけでなく六感をも揺さぶる感動の、深い意義をフランクルアウシュビッツの極限状態で悟ったのでした。
 人間は無感動になってしまったらおしまいだ。殺される前にくたばってしまう。だから人は、常に感動していなければいけないと考えたフランクルは、ひとつの実験のようなことを始めました。ユーモアはほんの数秒でも、過酷な現実を忘れさせる効用があることを知っていたので、彼は同室の外科医に、ひとつの提案をしました。「少なくとも、一日にひとつ愉快な話を見つけることを義務としよう」と。
 目の前ではガス室に送り込まれていくユダヤ人たちが、影絵のように隊列を組んで進んでいきます。そして自分たちはスコップで、放り込まれた死骸の上に土をかけるという作業をしなければなりません。そういう毎日の中で、一人ひとつずつ、笑い話を考え出したり思い出したりしては、そのことをひそひそと耳打ちして、ハハハと力なく笑う。それは数秒または数分のものだったけれど、自分を維持させるための武器になったと言っています。

この部分を読んで、ヴィクトール・E・フランクル氏の 「夜と霧」という本をいつか読んでみようと思いました。

<117ページ 永遠の愛はあるが、永遠の恋はない より>
 世の中には、ときにはこの人を好きになったら、身の破滅だぞと思わせるような、危ない恋もあるものです。そういうとき、「この人を好きになるべきではない」と考えて自分の気持ちを抑え、直接的な行動に出ずに、遠くからそっとその人のことを思うのが本来の愛の姿かもしれません。

いい教えです。

<126ページ 禁じられた恋愛の行方 より>
 夫婦同居でもなく、一夫一婦制も確立されていない妻問婚では、性を社会的規範でがんじがらめにすることもなかったのです。好きだと思えば、心の赴くままに、相手の女性を訪ねて、愛の交歓をする。また、女性も夫以外の男性から言い寄られて、好きだったら、愛しあう、うらやましいくらいにおおらかな時代だったのでしょうか。
 ちなみに、『万葉集』の中で、逢うという言葉は、セックスをするという意味なのだそうです。ただ逢って、お茶を飲んで、おしゃべりをして帰ってくるということは考えられないことだし、それは相手にとって失礼なことだったのです。

昔の日本、明るいなぁ。

<127ページ 禁じられた恋愛の行方 より>
 谷崎潤一郎佐藤春夫という日本文芸の二大巨匠は、お互いの妻を交換するという大胆な愛の形をとりました。最初、千代が谷崎の乱行を佐藤春夫に相談しているうちに、恋愛関係になってしまったそうです。

ジョージ・ハリスン師匠とエリック・クラプトンの話よりすごい。

<168ページ 男と女が二人ですることは全部そこに社会性が成立する より>
 人間には相手とつながりたい、コミュニケートしたいという気持ちがあります。それを仮に愛情と呼ぶのであったら、それが現象として発露したものが性なのではないでしょうか。ときにはそれは愛情ではなく、憎しみの発露のことでもある、軽蔑から性行為に発展することもある。あるいは、男性が自己の権力を確認するために女性を抱くことがあるかもしれません。また、女性が所有欲や独占欲を満たすためだけに、性行為をすることも考えられます。

メールとか携帯の繋がりが「コミュニケートしたいという気持ち」の発露先になると、身体能力が下がるような気がするなぁ。

<244ページ 静かなる愛、ポリネシアンセックス より>
 日本でも、性について、独自の観点から示唆にとんだ発言をしている人がいました。気によって自発的な運動を誘発して、自然な健康体を作る整体操法を確立した野口晴哉氏です。著書『整体入門』(ちくま書房)にこう記しています。
「性生活の元になるものは、お互いの行為に『気』が行きとどき、相手の快さを育てるように行為するからに他ならない。相手の裡に気を行き渡らせ、自分だけで行為をしない。それは人間のいう愛情の元である」
 この文章が書かれたのは一九八六年ですが、そのころ、すでに、現代人は知識で行動することが多くなっているために、人間本来が持っている体の勘が鈍ってきていると指摘しています。体の勘を失い、知識でこうどうしようとすると、性のエネルギーとなるべきものが、頭に上ってしまい、体で快感を感じなくなってしまうそうです。そして、そのころも雑誌で盛んに扱われていたセックスのハウツー特集について、相手の感受性を考えず、取り入れても、肝心な最初の性衝動が消えてしまい、感情が損なわれると批判しています。

最後にキました、このゾーン。野口先生の「整体入門」は名著ですから、みなさんぜひ読みましょう。そしてこの記述を読んで、沖先生の教えの時代に「セックスのハウツー特集」があったのかぁ、なんてことを思いました。


五木寛之さんという人は、とても素敵な男性だなぁ、と思います。
身体の話と心の話ができて、こんなに言葉の美しい人とだったら、毎晩でも飲みたくなりそうです。

愛について―人間に関する12章 (角川文庫)
五木 寛之
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4 さらに深く性愛を考えてみたい方には…
5 どんな愛でもかまわない
3 様々な愛を考えるきっかけをもらえる
4 面白かったです

★おまけ:五木寛之さんについては過去に読んだ本の「本棚リンク集」を作っておきました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。