うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「きっちり」という日本語を使いこなす、あるインド人ヨギの話

今日はインドから来日中、かつ関東遠征中のカマル親方と朝・晩稽古。
3月にインドで会っているのでそんなに久しぶりな感じはしないのだけれど、やっぱり日本で会うという状況が、新鮮です。
何をメインに書こうか悩んでしまうほど、今日は親方の話が面白かった。いくつかあったのですが、今日は一生懸命覚えた日本語を披露しまくってくれた親方の話の中で、格別に印象深かった話。


それは、夕稽古の後で行ったインドレストランでの出来事。
「ねえねえ、インド料理屋さんへ行こうよー!(上の写真)」と手を振る陽気な親方は、うちこよりもうんと年下なんでつよ。



道すがら、覚えた日本語を嬉しそうに話します。リシケシ以来、久しぶりに会えたミカちゃんと歩く。
 親方:ワタシハ、センセイデス!
  (ミカ:これさ、使う機会、実はほとんどないよね)
  (うちこ:まずそっから出会いが始まってるからねぇ)
 女子部英語:それって、あんまり使わないよね!
 親方英語:このまえ使った!
 女子部英語:へ〜、使ったの



インド人は、インド料理屋が好きだ。そりゃそうか。
ミカちゃんのほか、同じくリシケシで出会った幸恵さんも一緒でした。


ここでの親方の話が、爆裂おもしろかった。
そもそもこの人は、日本語を空耳するセンスが異常だ。うちこがこれまでにかなりの人数出会ったインド人のなかでも、他者の追随を許さないキング・オブ・ソラミミストだ。このへんの妄想連携機能は、きっといろいろなことが繋がってしまうヨギの、修練の副産物なのだろう。そういうことなら、うちこの妄想機能も説明がつくかもしれない。


今日面白かった話は、ふたつの話が繋がる。

 うちこ:親方、日本語いっぱい覚えたね。ほかにどんなの覚えた?
 親方:キッチリ。っていう日本語が面白いよ。
 うちこ:なんで?
 親方:インドでは、「キッチリ」は、何でも混ぜるんだよ。ゆでた豆も、野菜も、米も、みんな混ぜるんだ。
 うちこ:お料理のことかぁ。
 ミカ:うん、日本のおかゆみたいな感じ。
 うちこ:へぇ。
 親方:でも、日本語だと、「セパレート」なんだ。逆だ。
 うちこ:そう! Yes or No ね。


この話のしばらく後。


 うちこ:親方は、いつ自分の稽古をしているの?
 幸恵:それ、いろいろな人が聞く質問。
 親方:しない
 うちこ:しない?
 親方:しない。教えることに100%だよ。教えるときは、教えるときなんだ。自分の練習は、年に1、2回、そのためにどこかへ行くよ。
 うちこ:それは、インドの中?
 親方:うん、気ままにね。インドのどこか。この間は、南インドへ行ったよ。みんながヨガを習いに来る。ぼくは、教える。教えることに100%だ。そうしているんだ。
 うちこ:キッチリ、だね!
 親方:そうだ、キッチリだよ! あはは〜(正しく使えて、嬉しそう)


うちこはリシケシで、親方は夕稽古の後に自分の稽古をしているのだと思ってた。
初めてリシケシに行ったとき、いろいろ世話をしてくれたのが、この親方。はじめて稽古を受けた夜、親方はうちこをあるカフェの席まで連れて行き、「夕食をここで食べて、1時間後に道場の前に戻って来て」と言って、出て行った。そのあと、1時間後の少し前に道場へ戻ったら、部屋を閉め切っていた。それ以来、あ、この時間は自分の稽古の時間なのね、と思っていたのだけど、お金を締めたり掃除をしたりで、稽古じゃなかった。良く考えたら、1時間じゃ、ハーフプライマリもできない。


 教える立場で過ごす日々は、人のことに100%。
 それがぼくの、カルマ・ヨーガだから。
 教える立場でない日々は、自分のための練習に100%。


ということだ。


 教えるときは、そのことのために、集中するんだ。


ニュアンスは細かい。


 教えることに集中するんだ。


という瞬間の話ではなくて、もうすこしまとまりのある単位での話。
指導者としてのカルマ・ヨーガの志をきいてしまった。