著者さんはどんな人なのだろう? とWikiを読んでみたら、この著書が出た1年前の2002年ごろから、事件と裁判が続き、著作は2004年までで終わっているみたい。「タントラ」という名称で行為が語られることに、ヨギとしては少し複雑な思いですが、こういう話を聞き慣れてしまいがちなのも現実。
この本は、タイトルは男目線なのですが、内容は常時ワンセットで「女性側」「男性側」の考え方が対比で書かれています。うちこは両方の立場で「そうかも!」「そうだ!」「そうよー!」「やっぱり!」「ふーん」などと思う箇所が何箇所かありました。
いくつか、ピックアップして紹介します。
<82ページ 女性は、男性に関しても同じシステムで記憶する より>
男性はこの種のランキング表は作りませんが、たいていの女性は、自分の身のまわりの男性に点数をつけているものです。一緒にいて楽しい人のランキング表です。過去の総合点、つまり、野球の打率と同じ計算方法でランクをつけるのです。
女性は「誰が自分を一番気持ちよくさせてくれるのか」「誰が自分に安心とリラックスをもたらしてくれるのか」「誰と一緒にいる時、自分は一番楽しいか」ということを無意識ですが、いつも真剣に考えています。女性は誰かと一緒にいて、「気持ちよくありたい」という願望が非常に強いからです。
「野球の打率と同じ計算方法」というのは、よくわかる。
<93ページ 女性が腹を立てる理由 より>
男性は、自分ができないことを女性に要求されると、自分がダメ人間のように思えてきて自信を失ってしまうのです。その結果、相手の女性が怖くなってしまうのです。
では、男性はデートとデートの間に何を考えているのでしょうか。
それは、「どうやったら女性を楽しませることができるだろうか」と考えているのです。そして、しっかり彼女に応援されている男性の場合は、やる気いっぱいで仕事に打ち込み、仕事で自信を持てたという報告をしたいな、彼女に一緒に悩んでほしいな、と考えているのです。報告して、女性に「素敵ね」「よかったね」と応援されて更に仕事に励むのです。
そうやって男性は女性に応援されながら仕事を楽しみ、誇りを持とうとするのです。その誇りで女性を愛そうとするのです。
意外と「その瞬間」を楽しんでいない模様。「楽しいという感情は、私の中で起こることです」「応援されないと、だめなんですか?」というのは残酷ってこと? ありのままなのに。これはちょっと、めんどくさいぞ(笑)。
<105ページ 目的があると、女性はよく覚える より>
その目的というのは、「愛されること」です。愛されることに命をかけている女性ですから、それ以外のことについての事実の記憶はどうでもいいのです。はじめから記憶しようともしません。女性は、何を記憶しようとして、何を記憶しようとしないのか、その境目がはっきりしているのです。白黒はっきりしているのです。男性のように政治・経済から哲学までいろんなものに興味を示すということはあまりありません。
愛されたいと思う相手が人間であると決めつけられては、ちと残念。
<206ページ 幸福に背を向けてしまう女性 より>
恋人からやさしくされることを望んでも、親からやさしくされた経験がないと、やさしくされることを怖がります。やさしくされると、どう振る舞っていいのかわからず、不安にさえなるのです。困ったことにそういう人は、自分を愛してくれない人や自分を邪険に扱う人といるほうが安心なのです。自分が慣れ親しんだタイプの人だからです。未知なるゆえの不安がないからです。恐ろしいことですが、こういうことは現実には非常に多いのです。
こういうことを、男性が女性に対して言うこと自体が問題だったのでしょうね。けっこうギリギリのもの言いでのビジネス、多いと思います。
<221ページ 女性は空想の世界でも遊べる より>
事実を重視し、事実を優先的に記憶する男性にはできない、女性だけの遊びの世界です。特に空想が得意な女性は、まるで映画を見るように、頭の中で映像が作れるのです。
初夏に珍しく夢を見たとき、服の素材や匂い、蒸し暑さ、ファスナーを開ける音とか、駅のホームの音などかなり鮮明に映像化されたのですが、こういうのは、リアライズ作業の微細度の違いかと思うようになっています。
「こうなったらいいな」などの思いから展開するドラえもん的な空想は、大人になってもしまくっています。「やだ。○○に見えてきちゃった・・・」という困った性癖も健在・・・。
空想は女性の方が得意かもしれないけれど、妄想は男性の方が得意かも。と、中のオッサンがいうとります。
読んでいるときはあっという間。「親に愛された、愛されていない」のところ以外は楽しく読みました。
タイトルが悪いけれども
この著者は結局
男の敵は男しかいないんだな
一概に馬鹿と思う奴が馬鹿