うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

真の自己責任と自己実現の教えとしての新カルマ論 ポール・ブラントン 著

以前紹介した「秘められたインド」の著者、ポール・ブラントンさんの本です。先に結論から書きますが、素晴らしい本です。いつも鞄に忍ばせておきたい。耳なし芳一みたいに、全身に書いてしまいたい。そんな言葉ばかりでした。

保存された香りをそのままに、新しい茶器で丁寧に淹れなおされた紅茶のような、そんな味わい。真摯な取り組みです。訳も含めて。
香りの茶葉は、ラマナ・マハルシ師の教え。そしてこの本は、訳者さんの取り組みもいい。あとがきも読み応えがあり、ひとつだけ厳選して引用紹介するものを選びました。
あとがきでこの訳者さんは「お金はかなり稼いでいます。地元で尊敬されています。幸せな結婚生活を送っており、可愛い子どもたちがいます。家族で、年に二回、素晴らしい長期休暇を取ります。けれども私の人生は虚しい。何かこれ以上のものはないのでしょうか?」と自らのスタンスを唐突に生々しい言葉で吐露されます。
この本は、たった一人で隠遁しているわけではないすべての人に、おすすめしたい。


そんな素晴らしい一冊ですが、うちこのスタンス的に認識として持ったのは、基本的に「人類の範囲で展開」されているということ。それから、戦争に対するカルマの考え方は、そりゃそれぞれ国によって違うよね、ということ。「陰翳礼讃」を読んでいるときにも思いましたが、西洋と東洋の違いを思うとき、それは戦争で人を殺してきたという罪の意識に起因するものが大きいように思いました。「罪滅ぼし」へのスタンスの違いとでもいえばいいのかな。
バガヴァッド・ギーターも、「人を殺して戦うこと」に端を発しています。哲学は、罪の意識から生まれるものなのかもしれません。この本を読みながら、うっすらとそんなことを思いました。


今日の紹介は、多いです。これでもかなり厳選しました。
チョイスはやっぱりヨギ目線なんだろうな。他の人だったらどんなところを抜粋するのかな、なんて思うと、ちょっぴり楽しい本です。ではではうちこのセレクト、いきますね。


■カルマとは何か

<14ページ>
 この教えは、われわれがうぬぼれた個人主義者になることを許さないのと同様に、われわれを無気力な宿命論者に変えたりはしない。それは、みじめな弱さの口実を与えることも、あるいは錯覚に基づいた強さを支持することもない。確かなことは、それがわれわれに、われわれの様々な可能性についてのバランスのとれた見方、われわれの様々な力についての正気な見方をいだかせるということである。

この本を通じて語られているのは、バランスのことです。


<22ページ>
古代ローマストア哲学者(禁欲主義者)たちはこの観念をもっており、それを「宿命 fate」と呼んだ。古代ギリシャプラトン哲学者たちもそれを持っており、それを「運命 destiny」と呼んだ。そしてインド人たち ── 主に仏教徒ヒンドゥー教徒 ── は今もそれを持っており、それを「カルマ」と呼んでいる。

   ◇

 <世界観念 World-Idea >が宗教的神秘家たちに啓示された時、彼らは単にそれを「神の意志(神意)God's Will」としか呼ぶことができなかった。それがギリシャ人に啓示された時、彼らはそれを「必然 Necessity」と呼んだ。インド人たちはそれを「カルマ」と呼んだ。その観念が科学的思索者たちの耳に入ったとき、彼らはそれを「自然の法則」と呼んだ。

「因果応報」という言葉は、なぜか「悪いことすると、返ってくるよ」という悪いほうの意味でばかり語られるので(時代劇のせい?)、どうしても「背負ったもの」というイメージで捉えられてしまうのだけど、先入観なしに読んでみれば、どこにも悪いことばかりとは書いてない。
日本語は、哲学的な面でニュアンスの壁のようなものを感じることが多い。とりあえず警戒する民族なのかな。

<24ページ>
 秘教的なカルマの解釈は次のことを認めている。完全に孤立した個人というのは単にわれわれの想像の作り事にすぎない。各人の生活は、地方的、国家的、大陸的、そしてついには地球的規模へと常に広がっていく円によって、前人類の生活とからみ合っている。各々の思考は、世界に広く行き渡っている精神的雰囲気によって影響される。また、各々の行為は、無意識のうちに、人類の一般的活動によって与えられる支配的かつ強力な示唆の協力で成し遂げられる。

輪廻と時間の感覚規模のおはなし。現世利益のカルマだけしか想像できないと、ここは理解しずらい。



■カルマの働き

<29ページ>
 補正の法則は、その賞罰を、小さな人間の心の尺度に従って考量したりはしない。

そんなちんけな話ではないんだそうです。ここ、「あきらめつくわぁ、ありがとう!」な一文。

<29ページ>
 出来事と環境は、部分的にはあなたの人となり、およびあなたが行うこと(個人的カルマ)に従って、部分的にはあなたが必要とし、求めているもの(進化)に従って、また、部分的にはあなたが属している社会、民族または国が行い、必要とし、求めていること(集団的カルマ)に従って、あなたに引き寄せられる。

要するに、「部分」なんです。という意味で読み取ってください。「引き寄せられる」にフォーカスするのは無駄だというお話が、あとで出てきます。

<33ページ>
 因果は、科学の領域と同様に、道徳の領域をも支配しているということを人々に警告すべきである。幼少の頃からこの原理を考慮するよう、訓育が施されるべきである。苦しみを招いたり、厄介事を引き寄せたり、欲求不満をもたらすような原因を始動させることに責任を感じるようにさせるべきである。

今のテレビとかメディアについては、この視点で考えなければならない。垂れ流すカルマ。



■カルマの働き カルマと内なる革命

<45ページ>
 あなたの内なる革命のためにあなたのエゴが粉砕されなければならず、あなた自身が過酷な出来事や憂鬱な内省に襲われるかもしれない、そういう時がある。

あんまり何度も読むと、「不幸萌え」みたいになるので気をつけてね。



■カルマの働き 自由、運命、必然

<58ページ>
 もしわれわれが偶然ある人に出会わなかった ── きわめて重大な結果をもたらした出会いがなかったら ── 人生はどのような異なる行路をたどっていただろう? これは興味をそそる推測のための材料を提供する。運命は時として一本の糸にかかっているとわれわれは教えられる。が、それは常に従属した情況のあまりにもつれた結び目にかかっているので、もしそれらのどれか一つが変わったらいかに運命が違ったものになったであろうかと推測することは、魅力的ではあるが、無駄である。

「魅力的ではあるが、無駄である。」ここは、特に女の子が読んだほうがいい。お姫様になりたい人は特に。
「あなたがいなかったら、○○でした」なんて感謝されちゃう人も、読んでおいたほうがいい。ちゃんと、「その感謝はあなたが生んだものです」と説明できるようにね。

<62ページ>
 あなたがしたあらゆる行為、およびあなたに起こったあらゆる出来事は、あらゆる点でまえもって運命として定められていたというのがもし本当だったら、必然的にあなたの道徳的責任は消失することになり、これはあなたに対してだけでなく社会に対して多大の災厄をもたらすであろう。

そうなのよ、天災とかどう説明するわけよ。ってことになる。



■カルマの働き 自由と環境

<64ページ>
 環境は人間の生得的性質が現われるのを助けるか、または妨げるか、しかし環境がそれらの性質を創り出すのではない。もし環境が創り出すのだったら、あらゆる学校やスタジオで天才を注文生産することができるであろう。

当たり前のことなんだけど、うん、うん。という喩え。

<64ページ>
 悪い環境が悪い性格を創り出すのではない。悪い環境は悪い性格を発現させ、その発達を促すのである。性格的欠陥はすでに潜在的に存在していたのである。

良い環境が、悪い性格をあぶりだすこともあると思う。もし仲間がダークサイドに堕ちかけていても、同調する前に「発現」としてまず確かめることが大切。そうすると、悲観的にならずに対応できる。

<64ページ>
 平均的な人々はそんなに英雄的でも天使的でもなく、すぐに自分の魂が環境を超越することができないこと、および自分の神経が疑いなく環境に影響されることに気づく。

「平均的な人」って、最高の褒め言葉だと思う。

<71ページ>
 盲目的に教義を受け入れ、訓戒に従う人は、自分が属している組織に責任を転嫁する。が、この企てはうまくいかない。カルマは集団的であるだけでなく、また個人的でもあるからである。個人もまたカルマを免れることはできない。

この「企て」。そう、「企て」として認識しなければいけない。



■カルマの働き タイミング、サイクル、強度

<78ページ>
 ある行為のカルマが、ブーメランのような速度と正確さで戻って来る時がある。

そして唐突にくるこれ(笑)。あるあるぅ〜。ブラントンさん、最高!

<81ページ>
 われわれのほとんどは、自分が悪いカルマの周期を耐え忍んでいる時、運命はわれわれに対して盲目的に、不可解に、恣意的に、敵大的に働いていると信じがちになるが、これは事実に反している。それどころか、そこで働いているのは<絶対的知恵>自体なのである。

「これは事実に反している」。男前よのぅ。



■カルマと恩寵 恩寵を呼び出す

<98ページ>
 あなた自身の低級な性質をもっぱらあなた自身の努力によって克服するという考えは、恩寵にいかなる余地も与えない。よりバランスのとれたアプローチを見出すほうがよいであろう。あなたは、努力を通じて、努力だけではあなたが求めているすべてがもたらされることはないということを学ぶ必要がある。恩寵を引き寄せるための第一歩は、謙虚な気持ちで祈り、自分の弱さを素直に認めることである。

「自分の弱さを素直に認めることである。」の結びが、ドスンとくる。

<101ページ>
 もしあなたが恩寵を欲するのなら、あなたはそれを受け取るための何かをしなければならない。例えば、取るに足りない、または(否定的であるがゆえに)有害でさえあるゴシップや活動に時間を浪費しないように気をつけること。あなたの性格を浄めること。賢者たちの啓示について学ぶこと。あなたの人生行路について反省すること。心を静め、精神を鍛えるための規律を励行すること。

特に前半は、たとえ恩寵がなくても、心の健康のために励行したほうがいい。有害な情報と駄弁が多すぎる。



■カルマとの共働 あなたの理解を適用する

<109ページ>
 人々は自分の不幸な過去を嘆き、そしてそれを取り消すことはできないので、苦悶する。が、彼らは、自分が今せっせと作り上げている不幸な未来を取り消すことを忘れている。

そう、I AM の「AM」。「DID」は戻らない、「WAS」は過ぎた情報。

<110ぺージ>
 あなたはいやおうなしに自分の行為の結果を受け取るであろうという(カルマの)教えを聞いた時、(1)それが合理的な知識欲と感情的な正義欲を十二分に満たすことによって受け入れられ、(2)この考えが心の底からこみ上げる力と知的明晰さに達し、(3)その内在的真理が確かであり、その公正が慰めになると認識され、そして(4)それがあなたの世界観の中でダイナミックになり始める時、それはあなたの外面的生活に影響を及ぼし始めるだけでなく、影響を及ぼさざるをえなくなるであろう。

これは、実践で得る知恵なんだろうな。

<111ページ>
 感光した写真フィルムに必然的に像が結ばれるのと同じように、いったん一連の思考または行為が充分に強くなると、それはいやおうなしにカルマ的結果を生み出す。カルマの力が一定の勢いをつけると、外側に向かうその力は、緩和されるかもしれないが、しかしもはや止めることはできない。望ましくないものを蕾のうちに摘み取るという哲学的格言があるのはそのためであり、その意図は、それらが手がつけられないほど育つ前にカルマ的エネルギーを奪い去ることである。十分に育ち、力をつけていない思考は、カルマ的結果を生じないであろう。かくして、間違った思考をそれらが生じた時に摘み取ることの重要性が指摘されていのである。自分自身の中の悪い傾向、または一国の中の悪い動きに立ち向かうためのやり方は、それが勢いをつける前の初期の段階中にそれを食い止めることである。なぜなら、それが比較的強まる、後になってからそれを抑えるよりも、それが比較的弱い、初めのうちに抑えるほうが容易だからである。

これに有効なのが、デフラグ。断片化処理できるうちにね。

<112ページ>
 あなたのトラブルへのあなた自身の責任が正確にどこから始まるかを見出し、実はあなたの内面的欠点が外面的に投影されたにすぎないものを、尋ね出せない運命または手に負えない環境によってあなたに負わされたものから分離することは、貴重なエクササイズである。

それはそれ、今は今。ね。

<112ページ>
 あなたが自分自身の人生の浮き沈みを私情を交えず、不平を言わずに判断することができる時にのみ、あなたは自分の運命の神秘、ならびになぜそれが他の行路よりはむしろある特定の行路をたどったのかを理解する力を育むことができる。

ここは、いろいろな例が生まれる、読み応えのある数行。

<117ページ>
 何人かの善意のモラリストたちは、弟子はもはや他人の中の悪を捜すべきではないと言う。
彼らは別の極端に走り、われわれは善のみを捜すべきだと言うのである。哲学は、しかしながら、そのいずれかの見解も支持せず、ただ、われわれ自身よりも弱い人人々を裁くのは、まして彼らを咎めるのはわれわれの仕事ではないと言う。さらに哲学は、他人の中に善のみを捜すことは、彼らについての偽りの描写をすることであると言う。なぜなら、正しい描写は明るい面と暗い面の両方を組み合わせなければならないからである。それゆえ哲学は、精神的に他人をそのままにし(彼らに邪魔をせず)、勝手に彼らを評価しないほうを好む。われわれが自分自身のなすべきことに打ち込み、他人のことを彼ら自身のカルマの的確な判断に委ねるほうを好むのである。
 この原則の唯一の例外は、あなたがやむをえずある人と交際しなければならず、そのためあなたがその人の性格を理解する必要がある場合である。が、この理解は公平で、正しく、冷静になされねばならず、そして偏らないものでなければならない。とりわけ、それは個人的感情や利己的な反応を起こしてはならない。要するに、あなたは絶対に私情に左右されてはならないのである。が、弟子がそのような例外をしなければならないことは滅多にない。
あなたは他人の不完全さや欠点に注意するのをやめ、それらのことで決して彼らを咎めてはならない。あなたは、他人から特に彼らを調べるよう求められないかぎり、批判的凝視をあなた自身だけに向け、それによってあなた自身を改善し、矯正して、誤りを正すようにしなければならない。

「正しい描写は明るい面と暗い面の両方を組み合わせなければならない」。スターウォーズ的!



■カルマとの共働 有害な傾向に立ち向かう

<122ページ>
 起こったことは起こったことであって、われわれがそれについてできることは何もない。
われわれは過去を書き直し、自分がおかしてしまった過ちを正し、してしまった悪行 ── 他人に与えてしまった傷、こうむらせてしまった不幸 ── をもとどおりにすることはできない。
が、たとえ過去の記録を変えることはできなくても、それらに対するわれわれの現在の態度を変えることはできる。われわれは過去から教訓を学び、知恵をそれに注ぎ、自分自身および自分の行為を改善すべく心がけ、そして新しい、より良いカルマを創り出すことができるのである。最善のことは、これらすべてをなし終わってから、過去をそっくり手放し、真の<存在> ── 「私はあった」ではなく「私はある」という意識 ── の中に入ることによって、"永遠の今"に生きることを覚えることができるようになることである。

ものすごくよく語られることではあるのだけど、ハートで読めるかどうかという点で、その前後環境というのがその本の価値につながる。この本は、こういう「よく語られる話」を心で理解するのによいシークエンスが延々繰り返されます。

<127ページ>
 禁欲的服従を実践するほうが賢明な場合がある。が、出来事または環境と闘うことが必要な場合もある。

ここ、バランス。

<129ページ>
 人類に仕えなさいという訓戒とからんだ満足のいく秘密がある。そのような奉仕に献身する人は誰でも、ある日いやおうなしにブーメラン的見返りを受け取り、他の人々から彼のために尽くしたいという意思を表明されるであろう。なぜなら、カルマとは、何であれわれわれが発したものをわれわれに戻してよこす聖なる法則だからである。

ブーメラン2回目。うちこは仕事でよく「ブーメラン」という言葉を使うので、グッときてしまうのです。



■カルマとの共働 受容、忍耐、克服

<132ページ>
 いつ大胆な態度で困難に立ち向かい、いつ忍耐によってそれらを巧みに回避すべきかを覚えることは、知恵の一部である。あらゆる出来事にはふさわしい時がある。もしそれらがあまりにも容易に引き起こされるなら、その時には、ちょうどそれらがあまりにも遅れて引き起こされる場合とちょうど同じように、結果は良いものと悪いものの混同したものとなるであろう。しかしながら、もし人がふさわしい時を待つための忍耐力と、それをそれと認める知恵を持っているなら、その時には結果は混ざりもののない良いものとなるであろう。カルマは、諸々の要因の適切な組み合わせが起こるやいなや、働き出す。

ねじれやひねりのない(ごまかしのない)バランスについて語られています。

<141ページ>
 家庭生活に特有の情況は、カルマ的関係が愛のそれではなく、敵意のそれであるような二つの魂をしばしば結び合わせるということである。二つの魂は兄と妹として、あるいは夫と妻としてさえ結び合わせられるかもしれない。一方の他方に対する哲学的態度はどうあるべきなのだろう? 具体的な例として不仲の夫婦のケースを取り上げてみよう。通常、それに対処するための実際的方法として別居や離婚がすぐ挙げられ、確かにそれが必要だとみなされることが多いかもしれないが、ここではそれに偏らずに見てみることにしよう。
 道理をよくわきまえたパートナーは、第一に、相手のことを自分自身の過ちをはっきり気づかせてくれる存在とみなし、第二に、相手との関係を、そのような過ちの根絶を実験することができる実験室とみなすべきだ、と言いうるであろう。そこで、もし妻がしばしば怒りを激発させたり、絶えず口汚くののしるなら、夫のほうは彼女の挑発に乗って怒りを呼び起こしたりせず、むしろ潜在的自制心を呼び起こすべきである。彼女の思いやりの欠如は、夫の側にそれに応じた思いやりの欠如を呼び起こすべきではなく、むしろより多くの思いやりを呼び起こすべきである。このようにして、彼女の行動によって誘発された事態を、より高い心境に至るための機会に転換させることができる。家庭内のあらゆる諍いは、いかに些細だろうと、それによって夫は彼自身の内なるより神聖な側面を滲み出させることがでいるようになるべきである。
 再び、二人がお互いに根本的に合わず、遅かれ早かれ別れなければならないと仮定した場合でも、道理をわきまえたパートナーは、それによって生じた不幸を教訓にして、幸福のために外面的な物事に頼ることをますますやめ、かわりに、最良の心だけが生み出すことができるあの内面的満足にますます頼るようにすべきである。さらに、パートナーはそれぞれ、自分自身の突発的な衝動、愚かさ、あるいは激情によってみずから招いた過去のカルマの償いをしているのだということを悟るべきである。

うちこはいわゆる人妻だったりしたのがもう「前世」くらいに感じているので、「ひとりで生きていくにあたり」ってことで暗に励ましの言葉を求められたりすると、非常に困る。結局は「淋しがりかどうか」に依存するから、同調できなくてお役に立てない。
とりあえずここをパクってみるか。と思ったのと同時に、「道理をよくわきまえたパートナー」を目指すというのは非常に良い現実チューニング・メソッドと思いました。が、やるならほかの修行がいいなぁ。



■カルマと大いなる解放 個人的カルマを越えて

<153ページ>
 自分の個人的な意志の働きを<超自己>に委ねるほど柔軟になることによって行為する人は誰でも、必然的に、自分の行為の結果がどうなろうとそれに内面的にとらわれなくなるにちがいない。これは、結果が満足のいくものであろうとあるまいと言えるであろう。そのようなとらわれのなさは、彼をカルマの力から解放する。カルマの力は、もはや彼をその綱にかけることはできない。なぜなら、もはや「彼」がいないからである。行為に先立つ彼の意識と感情は、常に悟りの光に照らされた崇高な平静さによって特徴づけられているが、それに反して、悟っていない人の意識と感情は、自己中心的な願望、野心、恐怖、希望、貪欲、激情、嫌悪の念、あるいは憎悪といった ── いずれもカルマ形成原因となる ── ものによって動機づけられているのかもしれない。

なぜなら、もはや「彼」がいないからである。
というところ、説明としてうなりました。「とらえどころのない柔軟な心を、柔軟な身体とともに」。うちこはお勉強が苦手なので、とりあえず実践することにします。

<154ページ>
 もしあなたが、(1)注意深く行動し、にもかかわらず自分の行為の結果にとらわれず、(2)成功によって有頂天になったり、失敗にっよってみじめな気持ちになることなしに、自分の責任を果たし、義務を遂行することができ、(3)世の中に出て行き、その快楽を味わい、苦痛に耐え、にもかかわらずこの世界を越えたものを確固として探求し続けるなら、その時あなたは、ヒンドゥー教徒が「カルマ・ヨーギ」と呼び、ギリシャ人が「人(マン)」と呼ぶ存在になったのである。

(3)が、いい。(1)と(2)は何度も聞いたような表現だけど、(3)のようなところがまさに、この本を通していえる「ポール・ブラントン節」と言っていいと思う。条件づけの展開が、いい。



■訳者あとがき

<166ページ>
 昔から賢者たちは、「禍福は糾える縄のごとし」と心得て、一々の出来事に振り回されないよう心がけてきたようです。これを最もあざやかに例証しているのが、あの有名な「人間万事塞翁が馬」の故事でしょう。グルジェフもこの話を好んでいたらしく、彼はしばしば「ときには幸運となる不運」の一例として引き合いに出したと『グルジェフ ── ある弟子の手記』(古川順弘訳、コスモス・ライブラリー、近刊)中に記されています。著者のC・S・ノットは、中国の准南子(前漢時代に成立した道家の思想書)に記されているその故事を次のように訳して紹介しています。



 ある老人が、丘の上の廃墟となった古代の砦に、息子と一緒に住んでいた。ある日、老人の愛馬が逃げ出し、いなくなってしまった。彼の隣人がやって来て彼の不運を憐れんだ。すると「どうしてこれが不運だとわかるのかね?」と老人は尋ねた。数日後、馬が、他に野生の馬を数頭引き連れて戻ってきた。老人と息子はその野生馬を手なずけた。彼の隣人は今度は老人の幸運を喜んだ。すると「どうしてこれが幸運だとわかるのかね?」と老人は尋ねた。そして、たまたま彼の息子が馬に乗っていると、地面に投げ出され、そのおかげで息子は一生足が不自由になってしまった。隣人は老人を慰め、再びその不運を嘆いた。すると「どうしてこれが不運だとわかるのかね?」老人は言った。しばらくして戦が始まった。しかし、彼の息子は足が不自由だったので兵士に取られることがなかった。

人間万事塞翁が馬」の故事を知らなかったので、純粋に「おお!」と感動しました。


この本を通じていろいろな経験がシンクロしましたが、ひとつ言えることは、アーサナや写経(ここでは動禅と定義)を行なっているときに感じていることが、そのまま置き換えられる要素がとても多いということ。
「今、これって、まるで○○のようだ」と、動禅中に思うことへの回答のような。
これは、かなりのスルメ本です。

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ポール ブラントン
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5 カルマ論