「人間、この非人間的なもの」と一緒に買った一冊。精神科医の著者さんが、Fさんというちょっとアルコール依存気味であることを自覚している編集者さんと対談をするたてつけで「くるい」「きちがい」についての考察を展開する内容。
そして解説は上野千鶴子さん。おもしろい組合せ。
さっそく紹介に行く前に、この本の解説の上野さんの言葉が、いい。
<裏表紙抜粋コメントより>
「常識」というものを問わねば、クルッタものに対する差別をなくすことは不可能である。本書は、クルイ、キチガイという言葉をつくった「常識」そのものを問い直す。
<巻末解説より>
「安心の危険」よりも「不安の安全」の方が結局おトクなのですよ、どこのどこにもいないお医者さま、なだいなださんはわたしたちに教えてくれている。個人であれ社会であれ、あなたまかせにお医者さまを探して歩くより、結局はわたし、自分の面倒は自分で見るしかしかたがないようですね。
後者はバカボンのパパ文体ね。あまり上野さん自身の著書では見ないような文体ですが、やっぱりこの人、めちゃくちゃチャーミングな女性なんだと思う。「一穴一本主義」なんていうドキドキ・ガハハな発言をする上野さんが「結局はわたし、自分の面倒は自分で見るしかしかたがないようですね」って言ってるところが、めちゃくちゃかわいい。このかわいさをわかる男性は、なかなかいないだろうなぁ。
もう本の紹介の紹介の時点で、わくわくですね。
<13ページ 医者は裁判官じゃない より>
ぼくたちは、おとなしく受身で、診察室で待っているのさ。家族や保健所や警察官がクルッテイルと思って連れてくるものだけを観察しているんだ。つまりクルッテイルと判断するのは連れてくる人たちの方だよ。そこのところを忘れてもらいたくないな。
いまでいうと「あの人、やばい」みたいな会話をする場面だと思うのだけど、意外と「どうやばいのか」をちゃんと表現できる人って、少ない。そして、「どうして自分がそのことをやばいと思うのか」をちゃんと表現できる人は、もっと少ない。
<30ページ 正常と異常 より>
──つまり、正常ということは、異常のところが、あまり見つからない、というだけのことなのか。
ぼくは、そのとおりだ、と答えた。
しかも、人って相手によって状況も見えかたも変わるんですよね。当人も態度を変える。だからこそ、具体的に先の感想のようなことを話すことが大事。やばい瞬間の構成比をきちんと把握しないと、ただの差別。
<53ページ 病気を判断する常識 より>
世の中の方に座標をおけば、彼がクルッテイルということになるし、彼の方に座標軸をとれば、世の中クルッテイルということになる。ぼくとしては、この場合、世の中の方を治療したいね。だから本人の方は苦痛だろうが、耐えて行け、とはげましたい。
ものすごくあたたかい。
<86ページ わからない人、わかりすぎる人 より>
ぼくたちが、やつはクルッテイル、という時、その人間に、おそれと軽蔑の念をいだいているということになる。クルッテイルといわれた人間が、人をばかにするなと怒るのは、彼が別の誰かをクルッテイルという時に自分のいだく感情を知っているからだ。
これは、「教祖」となるような人の話の流れから展開する一説なのですが、別に教祖でなくても「人をばかにするなと怒る」という行為をしながら、その行為にいたる自己認識をどこまでできるかが、心のバランス感覚のトレーニングだと思う。
<99ページ クルイ恐怖のさまざま より>
ストレスというのは、決してはかれるものではないということをおぼえておいてもらいたいね。たとえば、想像してみたまえ、ぼくたちの祖先がジャングルで生活していた時、まわりには危険がみちみちていた。人間て、弱いもんだからね。オオカミ、トラ、ライオン、サソリ、ヘビ、ジャングルの中では、みなおそろしい敵だ。油断もすきもありはしない。その時代の人間はどうだったのだろう。ストレスなど問題にならなかったのだろうか。その時代と現代のマンション生活と、ストレスの比較ができるかね。
ここ、すごくヨガっぽい。そして、畏怖すべきものからも学ぶ。
<128ページ 発作的ということ より>
なんのことはない、みながストレスという言葉をかりて好き勝手なことをしているだけなんだ。実際に、自分のやっていることが、ストレスと関係があるかどうか、たしかめているわけじゃない。ま、言葉だけを借りているだけなんだ。ともかく、医学の新しい学説がでると、その言葉にすぐとびつく。そして、その言葉を流行させる。ストレスの前は、欲求不満がひとしきりに流行していたもんだ。
いろいろな言葉が常用単語になっていくね。
<131ページ クルイは一種類か より>
ストレス解消が自分の健康法などという人があるけれど、ストレスなどという言葉をかりているだけで、心の中では健康と病気という大まかな病気観をもっていて、病気にならないために健康増進という論理のあそびをしているだけなんだよ。
まあ、時間と余裕があるんでしょうね。
<183ページ 人間の統一性 より>
自分のものさしを持つためには、自分が自分であるところのものをとらえなければならない。ところがね、この自分をとらえるということが、考えるほど簡単ではないんだ。ある程度、生きてみなければ、自分というものが、おぼろげにしろ、わかりはじめない。
このへんから、ちょっとスワミっぽくなってきます。
<185ページ 人間の統一性 より>
ぼくは、自分のものさしをもつことさえ、決して、完全には出来ないことをいいたかったのだ。人間は生きている限り、可能性を含んでいる。としたら、自分を完全にとらえきることはできない。つまり、自分をものさしにするということは、その不確定さをものさしにするということなのだ。その不確定さを否定し、全部確定したものとして自分を見るのが、うつ病的状態だ。
ともかく、ごく、大まかにいっても、人間は変化していくのだから、変化に応じて、自己をはかるものさしを持たなければならないわけだ。そのために、前のものさしをすて、新しいものさしを持ちかえなければならない時期がある。
「不確定さ」への不安を言ったもん勝ちのフィールドへは、足を踏み入れないように気をつけなくちゃ。
<225ページ 情報と狂気 より>
つい最近に、去年の人口動態の統計が出たんだが、それによると、子供の自殺はジャーナリズムがあれほど騒いだんだけど、その前の年とくらべて、ほとんど変動がなかった。むしろ数は少ないくらいだった。待てばわかることなんだよ。それを知れば不安は消える。しかし、その時自殺が激増したことにして立てられた対策は、今もって続けられているんだ。一週間の現象から一年二年をおしはかろうとあわてるより、一年のことは一年をものさしにしてはかろうとすること、それは、より客観的に判断しようとする努力だといえると思う。純粋に客観的になることはむずかしくとも、それなら可能だろう。そして、それは情報に耳を完全にふさぐことではないだろう。
(中略)
個人のクルイ観が、社会全体にどれだけ影響を与えるかということが、このことからも、わかってもらえればいいと思うがね。
以前パリへ行ったとき、現地に住むユミコちゃんとニュースの報道の違いについて話したのだけど、日本はこれ、どんどんエスカレートしていますよね。華やかに現実逃避するアイデアの宝庫、みたいになっている。
なださんの本は、内容から学ぶというよりも、ものすごくいつもの日常の解釈にインスピレーションを与えてくれたり、説明のアイデアをくれる。そんな感じがしました。
再考を迫る本
「狂い」と社会
★なだいなださんの本の感想はこちらの本棚にまとめてあります。