うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自己喪失の体験 バーナデット・ロバーツ 著/雨宮一郎・志賀ミチ 訳

行かなければわからない旅の記録を、愛を持って翻訳され出版された本、そんな流れも含めてよい本だと思いました。
そしてこの分野については、共感するとかそういうスタンスで紹介するのも変な話。それでも、ここに出てくる表現の中に、著者さんと同じ旅には出ていなかったとしても、日常のなかで自分の中に起こるさざ波を言い表す表現として、とてもしっくりいく表現がありました。「静寂点」「純粋行」「純粋主体性」「情意」。この4つ。普段の生活の中で感じることを表わす言葉として、いままで使ったことがなかった、かゆいところでした。

この本は旅の記録と考察によって構成されています。「第一部 自己喪失の旅」「第二部 この旅についての考察」とも、タイトルのとおりに読みました。最初はタイトルの印象から少し身構えてしまったのですが、ヨガのアーサナや冥想同様に、「確認」でも「攻略」でも「共感探し」でもない向き合い方に、自然に文章がいざなってくれます。
この本は道場仲間が貸してくれたのですが、「いちおう貸しておきます。そういうタイミングがあれば」といった流れ。外部本棚のユキちゃんもそうですが、「あなたならわかるわ」⇒「おだてないでください」みたいな勢いとかはまったくなくて、「こんなんありますけど。ほい」という感じだったので、読めた。読んでよかった。自分では選びそうにないし。ありがたい。食わず嫌いはいけませんね。


両部ともに、「体験記録」のなかに、すばらしい教えが含まれていると感じたので、何度かに分けて紹介しようかとも思ったのですが、再販を願う思いも込めて、一度にまとめました。

まずはこの本のアウトラインについて、2箇所紹介します。

<訳者あとがき より>
著者はカリフォルニア在住の主婦で、この旅に入った当時四十半ばだったと思われる。カトリックの家庭に育ち、幼い頃から、瞑想とか観想とか呼ばれるものに親しんで来た人である。


<内表紙の解説 そのまま>
 この本は、ある日突然、自己と呼ばれるものの一切を失った女性自らが綴った体験の記録です。自己を失った後、さまざまな不思議な経過を辿り、自己が無いまま全く新しい生き方に入った体験をくわしく述べます。
 普通、自己があることは自明の理のように思えますが、著者はその前提に疑問を投げかけます。また、自己喪失の体験を通して、自己とは一体なんなのか、自己と世界とはいかなる関係にあるのか、といった人間存在にとって本質的な問題を掘り下げていきます。
 最も注目すべきは、その後、著者は内なる沈黙、空虚な内部を通り過ぎて「主客を超えた境地」に到達したということです。著者はキリスト教文化圏で育った人ですが、その境地は、仏教や禅でいうところの「無我の境地」「窮極の悟り」と共通点があるようです。
 自己とその本質、人間存在の秘密を照射・省察する異色の体験記。

仏教の悟りに似ているとも思いますが、旅の後の日常に向き合うなかで感じることについての吐露が、とても印象に残る本です。



以下、自分なりにこの本に向き合ってみた流れで、「ページの順は問わず、この旅をあらわすものとして印象にのこったところ」「第一部 自己喪失の旅」「第二部 この旅についての考察」の順に、何箇所かピックアップしてご紹介します。


▼この旅をあらわすものとして印象にのこったところ をいくつか

<24ページ 第一部 自己喪失の旅 より>
この旅を通じて学んだことを一つ述べておきたいと思います。何かを洞察するだけでは考え方を本当に変えるには不十分で、時が経てばどんな洞察も普通の考え方の枠にはめ込まれ、本来の姿は消えてしまいます。知性はすべての洞察を汚染する傾向があるのです。洞察を以後の心の働きに生かしておく秘訣は、それを取り上げて教理化したりしないこと、それに考えを向けさえしないことです。洞察は来ては去ってゆくもので、それを留らせるためにはともに流れて行くほかありません。たとえば、投げられたボールの動きに従って動くとボールを受け取ることができるのと同様です。

「洞察は来ては去ってゆくもので、それを留らせるためにはともに流れて行くほかありません」というところがとても印象的でした。「流す」という表現をよくみる瞑想のお話とは逆の、「流れて行くほかありません」という表現が。「どうなるの?」でも「どうするの?」でもない、「〜するほかない」という状況。


<82ページ 第二部 この旅についての考察 1.沈黙した心 より>
 この沈黙はあまりに自然で、私の存在に本来属するものであり、神から来るものではないと思ったこともありました。つまり私は静寂主義者で、ただ静寂のための静寂を追求しているという不安を感じたのです。しかしこの沈黙は単なる心の静寂ではなく、自己の中心には自己を越えた「静寂点」があり、自己はいつでも、さまざまの段階の沈黙を経て、そこに溶け込むことができるような状態なのです。この世の波が表面でどんなに荒れ狂っていても、この深い水底にはいつも平安があり、そこに身を避けることができるのです。この沈黙がどこまで私に属し、どこから神のものなのかはまったく分らないのですが、とにかく多くの煩わしいことから、そこに逃れることができるのをありがたく思ったのです。

「静寂のための静寂を追求しているという不安」という表現も印象に残りましたが、慣れでも磨耗でも諦めでもない「静寂点」の比率を増やすことが、アップダウンしやすい心にはたらく「なにか」ではないかな、と思ったりします。


<89ページ 第二部 この旅についての考察 2.友人の質問に応えて より>
人が自分自身を見ていることで、エクスタシーに入るなどということがあるでしょうか。実は、前にも述べたように、人は窮極の実在をいつも目にしているのですが、それがあまりに普通で平凡なので、他にもっと心を惹くもの、つまり自己を満足させるものを求めようとするのです。鏡で自分の顔を見てがっかりもせずに、「ああ、いつもの通り少しも変わっていないわ」と言える人こそ、普通であることの素晴らしさが分るのだと思います。

ヨガには誤解を生みやすい(か、だれかがそう演出している)ところがあるので、特に前半のようなことをきかれると本当にウンザリなのですが、後者は沖正弘さんの「無駄するな」、ラマナさんの「沈黙」に含まれるニュアンスと思います。


<90ページ 第二部 この旅についての考察 2.友人の質問に応えて より>
 純粋行というものが分りにくいのは、人は普通、行為を誰が何のために何をするかという面で考えるからですが、これはすべて行為の内容であって、自己が無ければもうそういうものは無く、行為と存在が一致したとき純粋行となるのです。

この著者さん、沖先生みたいなこと言うの。あちこちで。


<155ページ 第二部 この旅についての考察 5.自己 より>
 情意の働きの喪失について、一番大きな問題点は、他人への共感や愛など、その働きのよい面の代わりになるものは何か、そういうよい面が失われるだけならば、それがよりよい状態と言えるかどうかということにあるでしょう。
 しかし旅を終えた後の私は、徳を失ったという意識もないので、こんな疑問を持ったわけではありません。ただ、以前には努力を要したものがまったく自然にそこにあり、徳を行う必要が無くなったのです。

「共感や愛」についての意識も疑問もなく、失ったという意識もない境地が、悟りのようだといわれるゆえんかもしれない箇所。



▼「第一部 自己喪失の旅」 より

<34ページ より>
 結局、時だけが解決してくれる問題がたくさんあることが分りました。時は変化を意味し、その変化の過程で問題が解決したり変形して解消したりするのですが、こういう変化は思考では決して起こらないのです。疑問が絶えず生ずるのは仕方がないとしても、それに早まった答を出さないことが大事だと思いました。
 経験についても同様で、自分の経験に価値や意義を与えようとすれば、その途端に未熟なまま固まってしまって、そこに含まれていた珠玉のようなものを失うのです。

「自分の経験に価値や意義を与えよう」とした瞬間に、もうギブの奥にあるテイクが条件になっていて、時間をとめてしまうように思います。


<41ページ より>
そこに坐ってまわりの人々を見ながら、自己があるよりない方がよいと言えるのだろうかと思いました。自己が無くなってしまえば、ある意味で素晴らしい生き方ができるとしても、一方ではまた、耐えがたい虚無に出会うことにもなるのです。自己を脱ぎ捨てることは、どんな敵がいるか分らない所で武器を手放すようなもので、まったく狂気の沙汰です。自己が無ければ良くも悪くも運命の風に吹きまくられるほかありません。まわりの若い人たちがみな自己を持っているのを見てよかったと思いました。実際、この世のすべての人にまず第一に望みたいのは自己を持つことです。自己を持ちさえすれば、私が見たもの、それを見てはもう生きられないものを見ないですむのです。

「自己を脱ぎ捨てることは、狂気の沙汰」。ここは、あえてその理由となる箇所をこの次に紹介します↓

<39ページ より>
 私は突然まわりのすべての生命が完全に停止してしまったのに気がつきました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに侵入して生命を奪ってゆくのです。皆忍びよる虚無に息をつまらせ、断末魔のうめき声を発するほかないのです。生命が急に抜け落ち、そのあとには死と崩壊しかありません。これは奇怪な恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。私の身体はその場に凍りついてしまったのです。

虚無感という日本語はたまに見るけれど、そもそもすべての生命が完全に停止した「虚無」は、想像したらとても怖い。「心にぽっかり穴」でも「でかい穴」でもない、ブラックホール級でも足りないような。


<58ページ より>
一生こうして過ごすことにもなりかねないので、通路を歩み続ける日常の習慣を作ることに努めた結果、時がたつにつれて、虚無もあまり意識しないようになったのです。在ることの空しさが気にならなくなるとともに、為すことすべてになりました。山にいた時に、ただ在ることに置かれていた重点が、ここではただ為すことに移ったのです。

「ただ在ることに置かれていた重点が、ただ為すことに移った」と。


<63ページ より>
 相対的な心で「それ」を対象化できないことが分るとともに、それをいつも見る秘訣が分りました。それは注目しようとしないことです。

ここはわりとインドっぽいです。



▼「第二部 この旅についての考察」 より

<114ページ より>
 私がはじめから自己を持っていなかったとしたら、人が自己を確保するのにどんなに執着するかが分らなかったでしょう。自己を低いものと高いものに分ける人は、低い方を克服して高い自己を持つことを人間の終局目標とみなしているのですが、これは大きいな間違いだと思います。私も前にはそう考えていて、この高い自己と神の結合を目標としていたのですが、長い間の体験を経てこれを疑いはじめ、これが窮極のものではないかもしれないと思うようになったのです。

ここは、何度読んでもすごくまっすぐで、いままでに感じたことのないような浸透圧。


<134ページ より>
 旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。そのために心はいつも一点の曇りもなく晴れていて、既成の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきこと為すべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。

この本のすばらしいところは、のちに語られる、このようなところ。


<140ページ より>
 いろいろ大変な経験をした上で、純粋主体性はまったく今ここに生きることに関わっていることが分りました。(中略)経験を繰り返すうちに分ったことですが、純粋主体性は、全存在が集中して張りつめられた「今」への全き覚醒を与えるのです。こうして何カ月も経ってから、客体としての神を追い求める心の動きがついに止みました。それ以来、心は何ものをも特に見ようとすることなく、まったく「今」に生きるようになったのです。

感想は、ひとつ上の紹介同様


<141ページ より>
 この移行を妨げているのは外界の物事そのものではなく、その物事について人が考えることです。その考えがなければ、移行はそもそも必要でないいのかもしれません。今の私は絶えず妥協を余儀なくされています。縁ある人々に囲まれ、さまざまの価値と観念と意見の中で生き、一個人として振舞わなければならないのですが、自分が今見ているものをまだ見ていない人々と共に生きることは、なかなかむずかしいのです。私はこのむずかしさよって、人がほんとうに見るまでは、人生がいかに不完全なものであるかが改めて分ったのです。

今に生きるしかなく、見てたものは流れるものであり、人生は不完全である。というようにこの引用をつなげていくと、このアメリカ人の著者さんがブッダになぞらえる理由が見えてくる。般若心経みたいだもの。


<153ページ より>
 情意の働きの本質をよく見きわめる必要があります。その根は自分が生きているという感覚にあり、それには自分の意志や衝動、価値と目的の意識が伴っていますが、そこから過去への顧慮と未来への期待が生れ、それがすべての認識と思考を彩り、ついには、美意識、自然観、満足感、倦怠感、寂寥感などが出て来るのです。一言で言えば、瞑想に伴うものを含めて人間の内面性のすべては情意の働きの結果なのです。

いままで主にお寺で行なうような写経とか読経とか阿字観について話すとき、「想念」という単語を使って話していたことは、やっぱりリアルに「情意」だよなぁと。「情意」って言葉が思い浮かばなかっただけで。「邪念」なんてわざわざ悪者にしなくていいし、でも「想念」というよりももっと少しナマナマしい。


<158ページ より>
 今この瞬間に生きる者にとっては、何をどう感ずるかということは問題にはなりません。時間的にも内的にも前後を顧慮する余地がないので、努力や選択などのどんな動きもあり得ないのです。各瞬間はそれに応じた行動を伴っていて、考えたり感じたりする必要がありません。非相対的な生については、哲学上、神学上の問題がいろいろあると思いますが、これを知的に解明することは不可能です。これは、いつでも成り立つと普通考えられている論理的考察を越えたもので、直接に経験するほかには知るすべはなく、観察によって分るものではありません。ここには観察されるものは何もないのです。

「情意」を「情意」として流すと…… という流れから読んでも、ここ、道元さんぽい。


<159ページ より>
 小さい頃の私が退屈だとか遊び相手がいないなどと不平を言うと、いつも母から、喜びや満足を外にではなく自分の内に求めなさいと言われました。外にあるものに満足できたとしても、それは一時的なものに過ぎないので、自分の幸福を他人や物に依存させるべきではないと言うのです。また母が私に言って聞かせたのは、自分独りで満たされた時を過ごすことができ、たとえ外でどんなことがあっても平気でいられるようなものを自分の内に育てなければならないということでした。
 私はこの母の言葉に意識して従ったわけではありませんが、大きくなるにつれて自然に身について行き、人間が他に依存せずに生きるためには、自分の内に目を向けなければならないという母の言葉がよく分ったのです。そのおかげで私は、他人に依存することから来る対人関係の問題に煩わされることがありませんでした。そして自分に何より大切な独立性を他人についてもまず尊重したのです。
 他人との関係を人生で何よりも重要なものとし、自分の生存がそれにかかっていると思う人もいます。私はこういう考えにまったくなじめないのでよく分りませんが、自分の内なる他者をおいて他人に向かうべきではないと思うのです。
 ほんとうの他者と合一してはじめて、対人関係のあらゆる試練に耐えることができ、そこで何があっても心が乱されることがないのです。自分の存在の中心にある静寂点にこそ、人間の独立と安全への鍵があり、そこに達してはじめて他人に心を開き、寛大になり、その自由を尊重することができるのです。この内的なものが欠けていれば外に向かうほかなくなり、絶えず外に向かうことで対人関係の問題が生ずるのです。人生のほんとうの問題は自他の関係にではなく、自分と内なる「他者」との関係にあると言えるでしょう。

ほんとうの他者と合一してはじめて〜 のくだりは、心理学者のよう。


<161ページ より>
 愛が情緒でないことを認識してない人がかなりいますが、それで対人関係に問題が生じます。相手が自分の気持ちを鏡のように反映することを期待する情緒的な結びつきとして友人を考えるので、その条件に合わなくなれば次々に友人を取り替える人がいるのです。

好かれたから好きな感じがするのか、生活と天秤にかけるのか? みたいな話で、それは情緒。愛は、別。愛のない恋をする時間は、無駄かな。愛のある恋って、どんなだろう。なにで繋がるものだろう。


<162ページ より>
 「これが私の個性だ」などと言う気持ちを起こさせるのが情意の働きで、自己が無ければこういう独自性にとらわれることはありません。「存在そのもの」を見る者には差異がそのまま同一なのです。一歩先にはもっと独自な生の躍動があるのを窺い見さえすれば、今の独自性を失うことを恐れないのです。新しい生は今の生にくらべて、ちょっと考えると無変化で退屈に思われるかもしれませんが、現に新しい生が到来すればそんな気持ちは無くなるのです。

ここ、少し「バカボンのパパ文法」ですが、いいこと書いてあります。


<163ページ より>
 この人生の旅程ではさまざまの美しいもの貴重なものに出会うのですが、一歩先の新しい生に進めば、それをみな捨てて行くのです。これが窮極のものだとして何かにしがみつけば、生の流れに逆らうことになります。ある時に本質的だったものも別の時には意味を失ってしまうのです。

「旅がおしえてくれること」全般にいえる気がする。


<174ページ おわりに より>
 私はこの旅のはじめから、聖テレサや十字架の聖ヨハネが書いている観想生活の外にあると感じていましたが、その後、神と自己の合一を越えたこの次元にエックハルトが触れていることを知ったのです。エックハルトの書いたものやそれについての評論を読んで分ったことは、神学者たちがよくエックハルトの言葉を解釈しなおしたり訂正したりするのは、決っこの今まで欠けていた次元について述べた個所で、そこで包み隠さずに語られていることを何より気にしているようなのです。このようにはっきりと語ったという点で、エックハルトキリスト教の神秘家の中で独特な位置を占めています。エックハルトを認めるのに、突入の前のところに限ることは、その先の次元を失うことにあり、観想の道を局限してしまうのです。

聖☆おにいさん」を読んでいても、キリストさんサイドのネタは気づかずのスルーが多いんじゃないかな。とにかくキリストさん方面はいろいろあってどこから触っていいやらわからないなかで、メモとして残しました。


久しぶりに、はじめての本格フレンチみたいに、「えっとさてナイフってどんなノリで使うんだっけ? なんかで見てはいたのだけど」といった心持ちで紹介しました。
以下のような詳しいサイトもあるので、参考にされるとよいかと思います。
バーナデットロバーツの日本における評価


余談:さっきまで隣の部屋で父が「JIN -仁-」の最終回を見ていて、うっかりチラ見&耳を向けたら、綾瀬はるかさんがヨガナンダさんみたいなことを言っていて……、これもコメントは気楽に書こうと思いました(笑)。そのあと、「このおいらんの女優さん(中谷美紀さん)は、有名なのか? どんな人なんだ?」と聞かれたので、「あー、インドばっか行ってる人」と答えておきました。

自己喪失の体験
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