うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

人性論 ヒューム(David Hume)原著 / 土岐 邦夫・小西 嘉四郎 (翻訳)


西洋の哲学には疎いのですが、「哲学のおさらい おとなの楽習27」という本のなかにあった「ヒューム」というイギリス人哲学者の説明を読んだときに「なんか、ニヤーヤ学派みたいな主張だなぁ」とたいへん気になり、読んでみました。
読んでみると、ニヤーヤのドライな分解にサーンキヤ・ヨーガ的な情緒が織り交ざった、シビれちゃう内容。なかでも「印象」についての分解はインド哲学の諸学派はここまでやっていないので(トリグナという便利な概念があるのでここが発達しなかったのかも)、すごくおもしろい。
まえがきで「透明な論理を追いかけるとどうなるか、そういう知性を極限まで追い詰める作業を体験するのにまことに最適な素材がここにはある」と紹介されています。これが、ほんとうにそのとおりという感じなのですが、なかでも


 「知覚の活気」


という説明のしかたがたまらない。知覚したものにもさ、プラーナとグナの調子によって違いがでるじゃない。というようなトーン。そして終盤で、こうくる。

心の強さと呼ばれているものには、穏やかな情念が激しい情念よりも優勢であるということが含まれている。
(182ページ 第二篇 情念について / 第三部 意志と直接的な情念について / 第三節 影響を及ぼす意志の動機について より)

人格についても、このようにとらえる。

私は次のように確信してもよかろうと思う。すなわち、人間とは、思いもつかぬ速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ、ということである。
(110ページ 第一篇 知性について / 第四部 哲学の懐疑的体系とその他の体系について / 第六節 人格の同一性について より)



 自己は実体と同じものなのか。もしそうなら、実体が変化するときでも自己は存続するということについての問題がどうして起こりうるのだろうか。もし自己と実体が個別であるなら、両者の違いはなになのか。私としては、個々の知覚とは別個に考えられる場合には、私には自己と実体のどちらもまるでわからないのである。
(135ページ 付録 より)

無理にアートマンやプルシャなどというものを立てずに掘り下げてく、この過程に引き込まれます。



そして、以下のようなことも説く。

  • 原因が結果よりも時間的に「先行する」という関係(44ページ)
  • 一方から他方へと導く推理の本性、およびこの推理を信頼する信念の本性はなにか(46ページ)

(第一篇 知性について / 第三部 知識と蓋然性について / 第二節 記憶と蓋然性について、つまり原因と結果の観念について より)

前者はサーンキヤの「因中有果論」のようであり、後者はそこに「信頼できる人のことば」や「聖典のことば」などの無理のある着地に甘んじない非インド的な鋭さがある。


 要するに、類似する知覚の恒常的な相伴は、一方が他方の原因であることの疑えぬ証拠であり、そして、今述べた印象の先行は、印象が観念の原因であって、観念が印象の原因なのではないことの同じく疑えぬ証拠である。
(16ページ第一篇 知性について / 第一部 観念、その起原、構成、結合、抽象などについて / 第一節 観念の起原について より)

チッタが印象、マナスが観念と捉えると、ヨーガの思想とよく似てる。が、ヒュームさんの説では印象が感覚機能を刺激するという順番になっている。
ここからさらに印象を分解するのがヒュームさんのすごいところ。
長い引用になりますが、ここはスムルティ(smrti)の捉えかたに多くの示唆を与えてくれる内容なので、何箇所か紹介します。

 経験からわかるように、どんな印象でもいったん心に現われると、あとでふたたび観念として心に現われることがあるが、これには二通りの違った現われ方がありうる。すなわち、新たに現われるとき最初の活気をかなりの程度まで保持していて、印象と観念の中間とも言えるような場合と、すっかり活気を失って完全な観念であるような場合とである。第一の仕方で印象をくり返す機能は「記憶」と呼ばれ、あとのほうの場合の機能は「想像」と呼ばれる。一見して明らかなように、記憶の観念のほうが想像の観念よりもはるかに生き生きとして力強く、また、記憶の機能が対象を描き出す色合いは、想像の機能が描くときに見られる色合いより判明である。
 これに劣らず明らかなもう一つの相違が、これら二種類の観念の間にある。すなわち、たしかに記憶の観念も想像の観念も、生き生きとした観念も活気のない観念も、対応する印象が先に立って道を準備してくれなければ心に現われることはできないが、しかし、想像のほうはそのもとの印象と同じ順序、同じ形に拘束されないのに対して、記憶のほうはその点において、ある意味束縛されており、変形する力を少しも持っていないのである。
(18ページ 第一部 観念、その起原、構成、結合、抽象などについて / 第三節 記憶と想像の観念について より)



記憶や感覚機能につねに伴う信念もしくは同意は、それらが現わす知覚の活気にほかならず、これのみが想像から記憶や感覚機能を区別するものであるのは確かである。信じることは、この場合、感覚機能による直接の印象、もしくはこの印象の記憶における再現を感じることである。判断の主要な働きをなし、われわれが原因と結果の関係をたどる際に推論がそのうえに置かれる基礎をなすのは、知覚の勢いと生気をおいてほかにないのである。
(53ページ 同じく第一部 / 第五節 感覚機能と記憶の印象について より)



私は次のことを人間性に関する学における一般的な基本原理として立てておきたいと思う。それは、何らかの印象がわれわれに現われるようになると、この印象と関係を持つような観念へ心を差し向けるだけではなく、これらの観念に印象の持つ勢いと活気とを伝えもする、ということである。心の作用はすべて、それを行うときの心の構えにかなり左右される。だから、精気がどの程度高まっているか、注意がどれだけ注がれているかに応じて、つねに心の働きが帯びる気勢や活気は多くなったり少なくなったりする。したがって、思考を高め、生き生きとさせる対象がなにか示されると、心が傾注する働きは、その構えが続くかぎり、どれもいちだんと強く、活気に満ちているであろう。
(62ページ 同じく第一部 / 第八節 信念の原因について より)



自然は中間を選んだ。善や悪の観念のどれにでも意志を駆り立てる力を与えるようなことはせず、また、観念にこのような影響をまったく持たせないというふうにもしなかった。
(76ページ 同じく第一部 / 第十節 信念の影響について より)

インド哲学の中にある理論に「活力」が掛け算の要素として設定されているという自然さ。究極の自然主義とも言えそう。



「ブッディ(buddhi)」に対して懐疑的なところもまた、究極の自然主義を感じさせる。

自然は、絶対的な、抑制できぬ必然性によって、呼吸し、感じるのと同様、判断するようにわれわれを規定しているのである。また、目覚めている限りは考えないわけにはゆかず、真昼に周囲の物に目を向けるとそれらを見ないわけにはゆかないのと同様、ある対象が現在の印象と習慣どおりに結合していると、それがためにその対象をより強く十分な明るさで見ざるを得ないのである。さきほどのようなまったくの懐疑論がやたらと並べ立てる異論を苦労して打ち破ろうとしている人たちは、実際はみんな相手もいないのに論争しているわけであり、自然がとっくに心に植えつけて、避けられぬようにしている機能を議論によって確立しようと努力しているようなものである。
 そういうわけで、こんなに念入りにその仮想の一派の議論を私が示してみせる意図は、私が立てた仮説の真理を、すなわち、原因と結果に関するすべての推論は習慣にのみ起因すること、また、信念はわれわれの本性の知的部分の働きというよりもむしろ情的部分の働きであること、これの真理を読者に気づかせることにほかならない。
(91ページ 第四部 哲学の懐疑的体系とその他の体系について / 第一節 理性に関する懐疑論について より)

この「人性論」を読んでいると、「制感できると思うことすら、恥じ入りたくなる」という気持ちになる。インド人もびっくりな内容。だから「人性論」なのか!



この考え方で自由を取り扱うと、親鸞的になる。

自由の仮説に従えば、人間は最も恐ろしい罪を犯したあとでも、生まれ落ちた最初の瞬間と同じように清らかで汚れもなく、性格は彼の行為となんらのかかわりもないことになる。行為は性格に起因するのでなく、一方の邪悪さは他方の堕落の証明としてはけっして使用され得ないからである。たとえ一般の意見が反対のほうの説に傾きやすいとしても、必然性の原理をもとにしてのみ、人はその行為から賞罰を受ける資格を獲得するのである。
(175ページ 第二編 情念について / 第三部 意志と直接的な情念について / 第二節 同じ主題の続き(自由と必然について)より)

ここから続いていく第三篇の「道徳について」がよい。以下は「第三篇 道徳について」からの引用。


利害と快だけが道徳的な区別の依存する特有な感じまたは心情を生むのである。
(202ページ 第三部 徳と悪徳一般について / 第一節 自然な徳と悪徳の起原について より)

ここはその前の流れが長いのを省略して引用してしまいましたが、「特有」とか「特殊」の発しどころを掘り下げるのが、ヒュームさんの哲学の特徴に見える。手法がインド的なのかもしれない。



以下も、よく考えるとあたりまえなのだけど、ほんとうにそうだと思う。

人間が案出したものはほとんどが変化を受けやすい。それらは気分や気まぐれ次第でどうにでもなる。しばらくもてはやされて、そして忘れ去られてしまう。だから、おそらく、もし正義が人間の案出したものであることを認めると、正義もやはり同じ立場に置かれるに違いないと心配されるかもしれない。しかし、事情ははるかに異なっている。正義のもとにある利害は想像できる限りの最大のものであり、あらゆる時、あらゆる場所にまで及ぶ。
(205ページ 第三部 徳と悪徳一般について / 第六節 この篇の結論 より)

このように正義の存在を見つめながら、ヒュームさんは徳の尊厳、刑法の領域に踏み込まない。
その意思表明の以下の表現も、かなり素敵。

しかし、この点についてあまり述べるのはやめよう。そういう考察には、この書物の本来の性格とはかなり違った書物が別に必要である。解剖学者は画家とけっして張り合うべきではない。だがしかし、解剖学者は画家に助言を与える立派な資格を備えている。解剖学者の助力がなければ、画家がその芸術において秀でることは実際上できはしない。優雅に、正しく描く前に、各部分、それらの位置、結合について正確な知識を持たなければならない。そして同じように、人間性についての最も抽象的な思索でさえ、たとえどんなに冷たく、面白みがなくても、実際的な道徳に役立つものになる。そして、この実際的な道徳の学を、その教訓についてはより正しく、その訓戒についてはより説得力あるものとするであろう。
(207ページ 同じく第六節 この篇の結論 より)

「実際的な道徳に役立つもの」に価値を見出している。



この本には「人性論」のほかに「原始契約について」という論も収録されているのですが、これもまたおもしろい。

 私有財産の問題を扱った法律書哲学書の数は、原典とされているものにさらにそれらの注釈書をも加えるならば、数えきれないほどになるだろう。したがってわれわれは、結局のところ、これらの書物のうちに立てられている規則は、その多くのものが不確実、あいまいで、また気ままなものであると、安心して断言することができる。
(238ページ 「原始契約について」より)

バッサリ(笑)。
山本七平さんは日本の国家を「納得治国家」と表現したことがあるようなのだけど(ソースはこちら)、このヒュームさんの論にも、世の中の捉えかたの根っこに似たものを感じます。


一冊通して読んでみると、ヒュームさんが「これ、理解されないんだろうなぁとは思うのだけど」というトーンで述べるところにすごく人間味があって、読みながら「大丈夫ですよ、先生。インドならけっこう多くの学派が理解してくれます」と声をかけたくなる。
世の中にはまだまだ知らない、おもしろい論がたくさんあるのだなぁ。と、読みながらわくわくしました。


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