先日からここに感想を書きはじめた「茶の本」のなかの「茶の流派 The Schools of Tea」の章に続いて、今日は「道家と禅 Taoism and Zennism」の章をご紹介します。ちょっと読みすすめたらすぐわかるかと思うのですが、とってもインド哲学的な用語が沢山登場します。達磨さん、龍樹さん、シャンカラチャリヤさんも登場ということで、ほかの章に比べてかなりの親近感を持って読みすすめることができました。
さらには、「柔術」のお話も! ここはすごくいい話でしたよ。そしてもちろん章のタイトルどおり、タオのお話もバリバリ出てきます。
「英語って半分以上、勢いとアクションでなんとかなるよね」で生きてきたうちこにとって、英文の本というのはどうにもこうにも読むのに時間がかかるのですが、この章だけは、いくつかのキーワードから
「こういうことを書いてるんだろうなぁ」→対訳を読む→「わーい。あたったー」
の確率が高かったです。もともと興味があって少しだけかじってる、くらいの内容だと、英語の勉強も楽しくなりますね。
ではでは、今回も美しすぎる表現が満載のピックアップ、いきます。
<82ページ>
The Tao literally means a Path.It has been severally translated as the Way, the Absolute, the Law, Nature, Supereme Reason, the Mode.These renderings are not incorrect,for the use of the term by the Taoists differs according to the subject-matter of the inquiry.
「道」は、字義どおりには、「行路」を意味している。それは道路、絶対者、法則、自然、至上の理、方式など、いろいろに訳されている。こうした訳語も誤りではない、というのは、この語の道家の徒による用法は、探求の題目となっている事柄のいかんにしたがって同じでないからである。
うちこは大学時代に「レンダリング」って、絵起こしみたいなニュアンスで使っていた言葉なのですが、なるほどこの流れで、言葉のイメージをまた言葉でおこす作業でも言えるのかぁ、と勉強になりました。
<86ページ>
We have said that the Taoist Absolute was the Relative.In ethics the Taoist railed at the laws and the moral codes of society,for to them right and wrong were but relative terms.Definition is always limitation ── the "fixed" and "unchangeless" are but terms expressive of a stoppage of growth.
すでにも述べたように、道家にいう「絶対」は「相対」であった。理論学では、道家の徒は法律と社会の道徳上の掟とをののしった。なぜなら彼等にとって、正邪善悪のごときは相対的な言葉にすぎなかったからだ。定義はつねに限定である。──「一定」と「不変」とは成長の停止をあらわす言葉に外ならない。
こういうのって、かえって英語のほうが運動神経的に理解しやすい気がするのは、なぜだろう。「相対」よりも「Relative」のほうが、英文を使わないうちこでも、スッとはいってくる。Yogi Teaのパッケージとかで見慣れているからかな。
あと語感的に、「ストッページ!」ってのがなんか新鮮。ピピーッ、ピピーッ。はいそこ、停止ー! という印象を受ける。でも発音聞いてみたら、"すとぺじ"。ってめちゃくちゃ淡白な感じでガッカリorz...
<88ページ>
We are wicked because we are frightfully self-conscious.We never forgive others because we know that we ourselves are in the wrong.We nurse a conscience because we are afraid to tell the truth to others;we take refuge in pride because we are afraid to tell the truth to ourselves.
われわれは邪悪である、それはわれわれが恐ろしく自意識が強いからである。われわれは決して他人を宥(ゆる)さない、それはわれわれが自分らの悪いことを知っているからである。われわれは良心を助成する、それはわれわれが他人に真実を語るのを恐れているからである。われわれは自尊に隠れ家を求める、それはわれわれが自分に真実を語るのを怖れているからである。
般若心経ばりの繰り返し。以下の単語は「知らなかった」「こう使えるのかぁ」というので勉強になりました。
wicked=邪悪な, 罪深い
nurse=助成する(看護婦さんしか想起しなかった)
<94ページ>
The usefulness of a water pitcher dwelt in the emptiness where water might be put,not in the form of the pitcher or the material of which it was made.Vacuum is all potent because all containing.In vacuum alone motion becomes possible.One who could make of himself a vacuum into which others might freely enter would become master of all situations.The whole can always dominate the part.
水差し(水指)の用は、それの形だとか、それを作り上げている材料だとかにあるのではない。空虚は一切を包蔵する故に万能である。空虚においてのみ運動は可能となる。人もし、おのれを一つの空虚となすことができたなら、随所に主となるに至るであろう。全体はつねに部分を支配することができる。
これは、「Vacuum is all potent because all containing.(空虚においてのみ運動は可能となる)」というところと、「The whole can always dominate the part.(全体はつねに部分を支配することができる)」という表現をメモしておきたかったのでした。
vacuumつったら、その車を想像しちゃううちこなのですが、あれは車がつかなければ、「空虚」なんですね。知らなかったぁ。
この訳者の浅野晃さんはこの著が『名訳』と謳われる人なのだそうです。普通だったら「空虚はからっぽであるから、全てを含み得る」というようなことになってしまうところを、「空虚においてのみ運動は可能となる」とするあたり、すごいですよね。
dominate(支配する、優位を占める、権力をふるう)という単語も知らなかったので、勉強になりました。で、うちこがよく言う「攻略しに行くようなヨガはいや〜ん」とか「覇権欲でヨガする人、いや〜ん」とかいうときに「dominative」という言葉が使えるのかな、なんて思いました。
<同じく、94ページ>
Jiu-jitsu,the Japanese art of self-defence,owes its name to a passage in the Taoteiking.In jiu-jitsu one seeks to draw out and exhaust the enemy's strength by non-resistance,vacuum,while conserving one's own strength for victory in the final struggle.In art the importance of the same principle illustrated by the value suggestion.In leaving someting unsaid the beholder is given a chance to complete the idea and thus a great masterpiece irresistibly rivets your attention until you seem to become actually a part of it.A vacuum is there for you to enter and full up to the full measure of your aesthetic emotion.
日本の自己防衛の術である柔術は、その名称を「道徳経」の中の一句に負うている。柔術にあっては、無抵抗すなわち虚によって敵の力を引き出してこれを出し尽くさせようと力(つと)める、一方おのれの力は最後の闘いにおける勝利のために取っておくのである。芸術においてこれと同じ原理が肝要であることは、暗示の価値によって判明する。何事かを言わずに残しておくところで、観る人はその思想を完成する機会を与えられる。かくして偉大なる傑作は不可抗的に諸君の注意を奪い、ついに諸君が実際にその作品の一部となったかのような感を抱かせるまでに至る。空虚は諸君が入り来って、諸君の美術情緒の満足するまでこれをみたすことを待っているのだ。
キました柔術。いいですねぇここ。なんか、英文をプリントしたTシャツつくろっかー、とかになったときに(そんなこと、ないけど)、使うならここだ! と思いました。
draw out=引き出す なんですね。
シルヴィ・バルタンの曲「Irresistiblement(あなたのとりこ)」のおかげで、「irresistibly=不可抗的に」というのはなんとなく読み取れました。英語の勉強って、忘れていたいろいろなことを不意に引き出されるので面白いです。
<96ページ>
Zen in a name derived from the Sanscrit word Dhyana,which signifies meditation.It claims that through consecrated meditation may be attained supreme self-realisation.Meditation is one of the six ways through which Buddhahood may be reached,and the Zen sectarians affirm that Sakyamuni laid special stress on this method in his later teachings,handing down the rules to his chief disciple Kashiapa.According to their tradition Kashiapa,the first Zen patriarch,imparted the secret Ananda,who inturn passed it on to successive patriarchs until it reached Bodhi Dharma,the twenty-eighth.Bodhi Dharma came to Northern China in the early half of the six century and was the first patriarch of Chinese Zen.There is much uncertainty about the history of these patriarchs and their doctrines.In its philosophical aspect early Zennism seems to have affinity on the hand to the Indian Negativism of Nagarjuna and on the other to the Gnan philosophy formulated by Sancharacharya.
「禅」というのは、サンスクリットのジャーナから由来する名称である。ジャーナは瞑想を意味する。専一に瞑想することによって至上の自己完了に到達することができる、というのが禅の主張するところである。瞑想は仏の悟りに入るための六つの道のなかの一つである。そうして禅宗の徒の確言するところでは、釈迦牟尼はその晩年の教説においてこの方法に特に重きを置き、その規則を彼の高弟であった迦葉(かしょう)に伝えたのであった。彼等の言い伝えにしたがえば、禅の開祖である迦葉はその奥義を阿難陀に伝え、阿難陀から順次に師々相承けて、第28祖の菩提達磨に至った。菩提達磨は第6世紀の前半に北方中国にやって来た、そうして中国の禅の開祖となった。これらの祖師たちや彼等の教義の歴史については、あいまいな点が多い。その哲学的側面において、初期の禅は一方ではナガールジュナ(竜樹)のインド的否定論に、他方ではシャンカラチャリアによって体系づけられた不二一元論に、類似しているように思われる。
ここは普通に読んだらえらい難解そうなところですが、「Dhyana」とそこに登場する人名だけは知っていたので、そんなに「ホヨヨ?」とならずに読み進めることができました。ナガールジュナとシャンカラチャリアがセットで出てきていれば、「Indian Negativism」も語感の印象にひっぱられずに読み進められる。インド哲学勉強してて良かったわぁ。
ちなみに菩提達磨さんのことは、先日ちょこっと書きました(⇒だるまさんがころんじゃう理由 )。
<102ページ>
A special contribution of Zen to Eeastern thought was its recognition of the mundane as of equal importance with the spiritual.It held that in the great relation of things there was no distinction of small and great,an atom possessing equal possibilities with the universe.The seeker for perfection must discover in his own life the reflection of the inner light.
東洋思想に対する禅の独特の貢献は、それが精神的なものへと同等の重要さを世俗的なものへも認めたことであった。禅の主張するところにしたがえば、物事の大いなる相関のなかでは、大小の区別のごときは存在しない、一個の原子が宇宙とひとしい可能性をもっているのだ。完全を探求するものは、彼みずからの生活のなかに内なる光明の反映を見出さなければならぬ。
ここは、もろヨーガ。「an atom possessing equal possibilities with the universe.(一個の原子が宇宙とひとしい可能性をもっているのだ)」ってところと、「The seeker for perfection must discover in his own life the reflection of the inner light.(完全を探求するものは、彼みずからの生活のなかに内なる光明の反映を見出さなければならぬ)」という最後のところをメモしたかったのでした。
英語の対訳本を紹介するのは初めてなので、大変ながらもスクワット的に勉強になる作業。とっても新鮮な気持ちで本の紹介を書いています。英文を読んで、「うわー、ここの詫び寂びニクいわぁ」なんて、こんなふうにゾクゾクする本に出会ったこと自体が初めてなので、とってもとっても頭の中がワクワクしています。
▼この本は、全4回に分けて感想を書きました。ほかの3つはこちら
●茶の流派 The Schools of Tea
●「茶室」「花」「茶の宗匠」
●跋文(ばつぶん)15代・千宗室氏