うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

禅と茶道(禅と日本文化 鈴木大拙 著/第六章)

禅の予備知識(第一章)、禅と美術(第二章)」、「禅と武士(第三章)」、「禅と剣道(第四章)」「禅と儒教(第五章)」に続いて、これが最終章。
もともとの本は最後に第七章として「禅と俳句」という章があるようなのだけど、この対訳本は六章までの構成です。
終盤になってくるにつれ、物質社会に対する言及が増えてきて、そこがいちいちずっしりと響く。岡倉天心著の「茶の本」もそうでしたが、茶道の話になると千利休の教えが出てくるので格段におもしろくなる。
神秘主義の対極にあるようでいて、タオと共通性が多い、でも二元論ではない。きびしさがしなやかさを生むことのすべてを哲学とする禅のこころ。こんなに自分の(日本人の)こころの背景について分解されたような気持ちになる本は、これまでにありませんでした。心理学的な意味ではなく、価値観、美意識としての「こころの背景」。
いま日本人のなん%くらいになるのかわかりませんが、かなりの比重でいろいろな価値観が西洋的です。日々の暮らしの中で、なにか「ノれない気分」があるのだとしたら、それは「ワビサビ萌え」のせいかもしれません。

ここはずっしりキた、と思う箇所を引用紹介します。

<196ページより>
While Zen teaching is to transcend form and to grasp the spirit, it never forgets to remind us of the fact that the world in which we live is a world of particular forms, and that the spirit expresses itself only by means form.
Zen is, therefore, at once an antinomian and a disciplinarian.
禅の教義は、形態を超越して精神を把握することなのであるが、それは、われわれに自分たちの住む世界は特殊諸形態の世界である事実、精神は形を媒介としてのみ表現される事実を想起させることをけっして忘れぬ。禅は、それゆえ、律法背反主義者(アンチノミアン)であると同時に鍛錬主義者(デシプリネーリアン)である。

この本を読みながら、禅の教義がひいている「たずな」は、ヨーガのそれとは微妙にちがうと感じていた。それを、「(禅の教義は)精神は形を媒介としてのみ表現される事実を想起させることをけっして忘れぬ」という表現のすごさ。カルマ論とは、なにか違う。なにか、微妙な違いがある。「それは結果です」ではなく、「そういうこともある、ということを許容する器がいつもある」というような。
アルジュナにとってのクリシュナ」と「宮本武蔵にとっての沢庵和尚」の「いいからやれ」は違うんだよなと思うとまたおもしろい。

<199ページより>
(日本人の性質についての説明の流れから)
For the physical atmosphere enveloping the whole island of Japan is characterized with general mildness, not only climatically but meteorologically. This is mostly due to the presence of vapor give a soft appearance; and flowers are not as a rule too richly colored but somewhat subdued and delicate; while the spring foliage is vividly fresh. Sensitive minds brought up in an environment like this cannot fail to imbibe much of it, which is gentleness of spirit. We are, however, apt to deviate from this basic virtue of Japanese character as we come in contact with various difficulties social, political, economic, and racial. We have to guard ourselves against contaminations and Zen has come to help us in this.
日本全島をとりまく自然科学的雰囲気は気候上のみならず気象学上からも、総体的に温和という特色を持っている、これは多く空気中の水蒸気の存在にもとづく。山嶽・村落・森林などは水蒸気につつまれて柔らかな外貌を呈する。花は概して色がけばけばしくなく、やや和らぎを帯びておだやかである。そして、春の葉ぶりは目にもさわやかである。このような環境に育てあげられた感じやすい心は、誤りなくそこから多くのものを吸収するが、それが心の和となる。しかし、われわれは社会的・政治的・経済的・民族的種々な難題に接触するにつれ、この日本的性格の起訴的な美徳からそれやすい。われわれは汚染に対して自分をまもらねばならぬ。禅がこのときに際してわれわれを助けにくる。

この「感じやすさ」を削ぎ落とすことに労力を割いているような、そんなふうなことに「ノりきれない」ときの折り合い方として、プイッと後ろを向くのではなく、「禅がこのときに際してわれわれを助けにくる」と。なにかを悪者にすることで自分の価値観を立てようとする二元論的な発想自体が病的であると、日本人は、そうしなくてもよい力を持っているはずなんだよと、そういう示唆でもあると思う。


以下は利休の教えの解説。

<207ページより>
 Rikyu teaches that "the art of cha-no-yu* consists in nothing else but in boiling water, making tea, and sipping it."
 This simple enough as far as it goes. Human life, we call say, consists in being born, eating and drinking, working and sleeping, marrying and giving birth to children, and finally in passing away to nowhere anyone knows.


(中略)


Art is perfected only when it ceases to be art, this is when there is the perfection of artlessness, when the innermost sincerity of our being asserts itself, and this is the meaning of reverence in the tea-cult. Reverence is, therefore, sincerity or simplicity of heart.
利休は教えている。
 茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて
   呑むばかりと知るべし
これはどこまでも簡単である。人生とは要するに生れて、食い、飲み、働き、眠り、結婚し、子供を生み、ついに誰も知らないところに逝ってしまうことだ。


(中略)


技術の完成されるはそれが技術たることを止めるときのみである。この時に無我巧の完成が存し、人間の奥底の誠実がおのずから現れるが、これが茶の湯における「敬」の意味である。敬は、それゆえ、心の誠実か、単純さである。

一部を中略しましたが、ここは長いまとまりを読むととても沁みます。「ものごとをわざわざ複雑にする自我」について書かれています。


次は、インドっぽい。

<209ページより>
 Purity in the tea-cult may remind us of the Taoiostic teaching of Purity.There is something common to both, for the object of discipline in both is to free one's mind from the defilements of the senses.
 茶の湯の「清」は道教の「清」を想起させる。両者に相通うところがあるのは、鍛錬の目的が五官の汚れから心を自由にすることにあるからであろう。

道教が二元論的であって二元論ではない感じが、インドっぽい表現とともに語られている。でも「リグ・ヴェーダ」には「清」のニュアンスが潔癖的な排他だったりする。インド・中国・日本。三つの国の東洋哲学のおもしろさが集約されたように感じられる部分でした。


以下は利休の歌の紹介なのだけど

<210ページより>
"While the roji is meant to be a passageway
Altogether outside the early life,
How is it that people only contrive
To besprinkle it with the dust of mind?"
露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなぞ散らすらむ

英語のほうがしっくり沁みる。


この章は最終章なので、著者さんがなぜ自分がこのように東洋の教えをわざわざ伝えようと思うのか、その心は……というような要素が語りのなかによく登場します。
ふたつ、グッと刺さった箇所を紹介します。

<219ページより>
The main question is whether life is meant for leisurely and cultural enjoyments, or for pursuing pleasures and sensational excitements. When the question is settled, and if it is necessary, let us negate the entire machinery of modern life and start a new one. I hope our destination is not the enslaving of ourselves all the time to our material wants and comforts.
主要な問題は生活はゆったりした教養的享受のためにあるのか、快楽と感覚的刺激を求めるためにあるのか、どちらだろうかという点である。この問題がきまった上で、必要ならば、われわれは現代生活の全機構を否定して新しく始めてもいい。われわれの目的は始終、物質的欲望と慰安の奴隷となっていることではない。

「この問題がきまった上で」には「ハーフ&ハーフ」の選択肢もあるということを忘れずに。

<231ページより>
The Zen masters, ultimately deriving their philosophy from the Buddhist doctrine of Sunyata* and prajna*, describe the Unconscious in terms of life, that is, of birth-and-death which is no birth-and-death. To the Zen masters, thus, the final intuition is the going beyond birth-and-death and attaining the state of fearlessness. For the Unconscious then permits its privileged disciples, masters of the arts, to have glimpses of its infinite possibilities.
禅匠たちは究極においてその哲学を仏法の空(スンヤタ)および般若(プラジュニャ・智慧)の説から得て、生命、すなわち「生死なき生死」という語をもって、この「無意識」を説く。禅匠にとっては、それゆえに最後の直覚というのは生死を超越することであり、無畏の境に到達することである。

仏法から日本の風土の中で教え継がれてきたこの「感覚」は、声高でキャッチーな宗教に比べると、細かすぎてわからない。でも、確実にある素地。


いままでいろいろなことに対して「なんとなく」感じていた違和感の、摩擦のもとになっている小さなとげとげの息吹のようなものをていねいにひとつづつ見ながら説明してもらったような、そんな気持ちになる一冊でした。
葉っぱの裏のちいさい虫たちを見つけて「ほら。ここにこんなに小さな虫が。ずっとここにいたんだよ」と教えられたような。
「いてもおかしくないのはわかる。ただ、葉っぱをめくってみなかっただけ」「花だけを見てた」
そういうことって、まだまだたくさんありそうだ。