うちこのヨガ日記

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禅と武士(禅と日本文化 鈴木大拙 著/第三章)

禅と日本文化
まえに第一章と第二章を紹介した「禅と日本文化」の第三章です。この章は長かったので単独で紹介します。
「戦うこと」に向き合う教えについて、始終バガヴァッド・ギーターとの違いを感じながらさまざまな思いがめぐりました。
この部分を読んでいたら、習慣のなかのあちこちにある「禅的なマインド」を発見した。男の子にはたまらないテーマだと思います。


この章のはじめに、仏教各宗の特色をよく表している日本のいい表しが紹介されていました。

<65ページより>
 We have the saying in Japan ; "The Tendai is for royal family, the Singon for the nobility, the Zen for the warrior classes, and the Jodo for the masses."

それぞれ、宮家、公卿、武家、平民と訳されています。
この感覚で仏教を学ぶと、すごくわかりやすくなりますね。



このあと、サムライの精神の説明が展開されます。
まず「葉隠」の説明が、グッとくる。

<77ページより>
 There is a document recently talked very much about in connection with the military operations in China. It is known as the Hagakure whitch literally means "Hidden under the Leaves," for it is one of the virtues of the samurai not to display himself, not to blow his horn, but to keep himself away from of the public eye and be doing good for his fellow-beings. To the compilation of this book which consists of various notes, anecdotes, moral sayings, etc., a Zen monk had his part of contribute.

 最近中国における軍事行動に関連して、やかましくいわれた一つの文書がある。「葉隠」というのであるが、それは文字通り「葉の陰に隠れる」意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽すのが、武士の徳の一つだというのである。この書は種々の記録・逸話・訓言などから成っているが、その編纂は、ある禅僧が担当したのである。

恋愛の武士道を説き、「自尊心をちょっとどこかへ隠す、と言うのは、何と言う便利なことであろうか」とおっしゃる宇野千代さんを想起した。「恋は秘め事」を越えた、「恋は葉隠れ」のステージ。



この本では武田信玄上杉謙信が禅に通じた人だというストーリーで書かれています。彼らの利害を超越した「自然」の享楽を「風流」と呼ばれるものだと説明しています。
その流れで。

<93ページ>
The Japanese have been taught and trained to be able to find a moment's leisure to detach themselves from the intensest excitements in which they may happen to be placed. Death is the most serious affair absorbing all one's attention, but the cultured Japanese think they ought to be able to transcend it and view it objectively.

日本人は自分たちが最も激しい興奮の状に置かれることがあっても、そこから自己を引離す一瞬の余裕を見つけうるように教えられ、また、鍛錬されてきた。死は一切の注意力を集注させる最も厳粛な出来事であるが、教養ある日本人はそれを超越して、客観的に視なければならぬと考えている。

インドの死生観に対して日本人の特性はここにある。
まさにそれを説明している部分を続けて抜粋引用します。

<98ページより>
 "To die isagi-yoku" is one of the thoughts very dear to Japanese heart.
(中略)
The Japanese hate to see a death irresolutely and lingeringly met with, they desire to be blown away like the cherries before the wind, and no doubt this Japanese attitude towards death must have gone very well with the teaching of Zen. The Japanese may not have any specific philosophy of life, but they have decidedly one of death which may sometimes appear to be that of recklessness. The spirit of the samurai deeply breathing Zen into itself propagated its philosophy even among the masses.

「潔く死ぬ」ということは、日本人の心に最も親しい思想の一つである。
(中略)
日本人は思い切りわるくぐずぐずして死を迎えるのを嫌う。風に吹かれる桜のように散り逝くことを欲する。たしかに日本人のこの死に対する態度は禅の教えと一致したに違いない。日本人は別段、生の哲学は持たないかもしれぬが、たしかに死の哲学は持っている。時とするとそれは一見、向う見ずの哲学であるようにも思われよう。禅を深く吸込んでいる武士の精神はその哲学でをまた庶民の間にまで拡げた。

「蝶々さん」を想起した。
四季にアニミズムのような思想をもつ神道と、禅の美学は、たしかに日本人の日常のそこかしこにある。桜はまだか、桜が咲いた、桜が散ったと。これからそんな季節がやってくる。


「去り際」へのこだわり。
徳を積んで来世に備えるのではなく、桜のようにいつか散るものとして、風流に自然と同化するなかに徳をみいだす。
風土の背景と、そこから生まれる思想の違いをしみじみと感じました。