うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

空海の夢 松岡正剛 著

哲学にはあまり明るくないのですが、興味深く読めました。構成もとっても面白い。
「あら!」と思ったのが、この著者さんも東寺ではまず帝釈天のダンディズムに魅了されたという話(笑)。やっぱりそうだよなぁ(参考日記)。


いくつか、興味深く読んだところをご紹介します。

<23ページ 生命の海 より>
 仏教の要訣は、せんじつめればいかに意識をコントロールできるかという点にかかっている。生命は進化して意識をもった。長いあいだの時の流れが必要ではあったが、結局のところそれによってふたつの世界が見えてきた。
 ひとつは「梵」に代表されるマクロコスモスである。もうひとつは「我」に代表されるミクロコスモスである。仏教直前までの努力によって、この両社の統一こそを意識がはたすのであろうという予想が確立された。これがおおざっぱにはヒンドゥイズムの「梵我一如」の構想である。ブラフマンアートマンの統合である。

そのままヨガに置き換えても、そのまんまいける。

<50ページ 言語の一族 より>
 青年空海が十五歳で奈良におもむいたおり、空海の眼に映ったのは佐伯今毛人の壮大な佐伯院であったろうが、その佐伯院をも広い意味での自分の氏寺とみなした空海である。空海にはそういうところがあった。AとA'とA''をも同定するところがあった。だからこそ、インド・中国・日本にまたがる思想の潮にも対応できた。

空海さんの魅力の要素として、密教と接するところにあるいろいろなこと(発祥や伝承のしがらみ・背景を含む)を、グルーピングして体系だてたり、儀式としてまとめたり、あえてゆるいつながりで置いておくようなバランス感覚みたいなものがあるなぁと思っていたのですが、こういう表現に触れて嬉しくなりました。

<56ページ 遊山慕仙 より>
(タオイスト入山のパフォーマンスである複雑なコズミック・ステップについて)
これはまさしく舞踏の起源であり、また拳法の起源でもある。太極拳はまさに太極(北極星あるいは北斗七星)の形態模写から派生したともいえるであろう。

河内長野の「観心寺」に北斗七星をまつってあるのですが、そのときから空海さんと北斗七星曼荼羅に興味を持ったので、これはメモしておきたいと思いました。

<96ページ 仮名乞児の反逆 より>
 青年真魚はしばしば大安寺を訪れる。大安寺は佐伯院に隣接する巨魁の寺院である。昔、百済大寺とか大官大寺とか高市大寺とかよばれていた藤原京の寺が平城京に移って大安寺となっていた、東大寺とともに国家仏教の中枢機関ともなっていた大安寺は、話によれば大唐長安西明寺を真似てつくられており、その西明寺は天竺の祗園精舎を真似ており、その祗園精舎は兜率天の宮城の模型ということだった。

これは、行ってみたい寺リストとしてメモ。

<108ページ 方法叙説 より>
編集の出発はAに見出したきらめきを異なるBにも見出したいと願うことにある。そこが学問とは異なっている。Aをそのまま突っ込んではしまわない。きらめきを多様の中に求めようとする。

これは空海さんに関係なく、メモ!

<129ページ 長安の人 より>
空海に関するある推理の項目から
(7)空海はこれらの宗教的動向のほかに、当時の長安を襲っていた�佩教(ゾロアスター教)、マニ教景教(ネストリウス教)、回教(イスラム教)などの西来の異教にも、充分な観察の眼を行きとどかせたことが予測される。顕教が嫌った護摩をあえて採用した密教に集中的関心をもっていた空海が、とくに�佩教の「火」の用い方に関心をもったことも予測される。夙に松本清張が指摘していたことでもある。

護摩法会や宿坊での勤行中に聞く、あのパチパチッという護摩の不規則な音と声明のリズムの調和が好きなのですが、ふつうにヤカンでお湯を沸かしているときのパチパチッという音にもなんだか身体に響くリラックス感があります。流水音に感じるなにかと同じような。身体の中の何かの音と共鳴しているのかもしれません。

<207ページ イメージの図像学 より>
(流れ略)マンダラの対称性に普遍的な強化を与え続けたのは、生命体のほとんどが対称的であったことにもとづいていたのではないだろうか。
 すでにヨーガは人体の正中線上にチャクラを見出し、それぞれに円・三角・矩形・台形などの形象を与えていたものだった。

胴体に、手足二本ずつに、丸い頭いっこ。伸びたり縮んだり、開いたり閉じたり。膨らんだりしぼんだり。いつもなんとなくマンダラを意識しているのかもしれないなぁ。


次のふたつはまとめて。

<278ページ 呼吸の生物学 より>
声を出しているときは、声を出さないときよりも呼息音がおさえられている。
(中略)一般に、発音時には一分あたりの呼吸数が激減し、吸息作用はすこし増すものの呼息作用はいちじるしくゆるやかになり、全体の呼吸は深くなる。これは読経をしている場合のボーカリゼーション想定してみるとよく了解できる。

<289ページ 呼吸の生物学 より>
 空海が声には文があると言っているのは驚くべきことだ。「十界所有の言語はみな声に由っておこる。声に長短高下、音韻屈曲あり。これは文と名づく」とあり、さらに「文は名字に由り、名字は文を待つ」とある。

アーサナとプラーナヤーマでは縦・横の矢印で感じていること(呼吸の流れや、百会と会陰のベクトルなどですね)が多いのですが、瞑想と読経をするようになってから、小刻みな震えだったり曲線・波線だったり、そんな動きがあるんです。「長短高下、音韻屈曲」という表現が、このことをなんだか言い表してくれているように感じました。

<289ページ マントラ・アート より>
(この章だけAさんとBさんの対談形式なので、口語調)
『般若心経秘鍵』には「秘蔵真言分」の一節があるけど、そこでは「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く。一字に千里を含み、即身に法如を証す」という考え方を出して、有名なギャティ・ギャティ・ハラギャティ・ハラソウギャティ・ボウジソワカという般若心経の真言ラニを解釈している。

「ギャーテーのあそこだけ言ったら、ぜんぶ唱えたのと同じことにできるって教わった!」(ほんとかよ!)と、真言宗系の中学だか高校だかを卒業した友人に教わったことがあるのですが、書いていても少しテンションが上がってしまうこの部分、なんか魔力がありますね。

<396ページ 母なる空海・父なる宗教 より>
 多くの宗教活動は個人の「魂の枯渇」を救済するところから始まっていく。そのモデルは歴史のなかに数多く輝いている。明恵の枯渇と救済、スピノザの枯渇と救済、オーロビンドの枯渇と救済、ブーバーの枯渇と救済──。それぞれの枯渇と救済がある。信仰者たちはこうした先達のモデルを念頭におきながら、類の問題を個にあてはめていく。先に記したように、日本人はこの宗教者一人ずつとの相対が苦手である。

「日本人はこの宗教者一人ずつとの相対が苦手」というところには、わたしも同感です。「それってあの人の言ってたあれと同じだわ」と感じていくことを楽しむ前に、なにか正しいものをひとつに決めなければいけないと思いこんでいるような。




いろいろな興味のタネを拾ってしまいました。日々のヨガでもまた感じることが変わってきそうです。

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