「イラスト図解版 お経の意味がよくわかる本―素朴な疑問が氷解し、仏の世界が見えてくる」という長い名前の本です。同僚のシカちゃんが貸してくれました。いろいろなお経の原文と現代語訳、その解釈が書かれた本です。
有名なお経ばかりですが、どれも特色があるのですね。わたしはたまに真言宗のお寺に行くので、理趣経は何度が聴いて、原文も訳も意味を読んだり、説明CDを聴いたり、その誤解されかねないお経についてはここでも書かずにいたのですが、今回はこの本の引用という形で書いてみようと思います。
どのお経もポリシー(?)があって興味深いのですが、なかでもダントツ面白かったのがこれ。観音経。法華経(妙法蓮華経)の中の第二十五品目、という位置づけ。観音経は、法華経の一部でありながら、切り出してしっかり読まれています。これは「観音様」と親しまれる観世音菩薩のキャラクターによるものなんだそうです。
以下を読むとわかりますよ。
<50ページ 妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五 原文と現代語訳 より>
(現代語訳のなかの一部)
たとえ害意によって大きな火の坑(あな)に落とされても、観音の力を信じれば、火坑は池に変わる。
あるいは、大海に漂流して龍や魚、鬼神の難に遭うときも、観音の力を信じれば、荒波にのみこまれることもない。
あるいは、悪人に追われて金剛山から落とされても、観音の力を念じれば、一筋の毛ほども傷を受けることはない。
あるいは怨賊に囲まれ、刀をもって害を加えられようとするときも、観音の力を念じれば、たちまちのうちに怨賊たちに慈悲の心が起き、危害を加えることがない。
(このバリエーションが延々と続きます)
これ、そのまんま西遊記です。平岩弓枝さんの西遊記(上巻の感想/下巻の感想)では、観音様はチャーミングな世話焼きキャラとして描かれています。なんでも屋アイドル、といった感じ。
全文の流れを知りたい、という人は、こちらのサイトがとてもわかりやすくおすすめです。
さて、続いて理趣経。誤解されないように紹介したいので、ヨギ目線で書きます。
<60ページ 般若理趣経 原文と現代語訳 より>
(現代語訳の末尾)
そして(現象世界に存在する)すべてのものは、本質的には清浄であると説かれた。いわゆる性的欲望が起こること、男女が触れ合うこと、離れがたくなること、一体となって世界が二人のためにあるように思うこと、抱擁の悦び、愛情が生まれること、それらによって満たされること、身を飾ること、触れることによって喜びが豊かになること、愛によって目の前が明るくなること、身体の楽しみが得られたこと、形を見る・声・匂い・味などの五感が満たされることは、みな清らかであり、そのまま菩薩の位なのである。
いま真言宗のお寺で読まれている上記のものは、不空三蔵(不空金剛)が訳したといわれています。玄奘による訳名は「大般若経第十会、般若理趣分」。最澄さんとの離縁のきっかけになったことでも有名なお経です。
以前「図解雑学 空海」の感想を書いたときにいい説明を写真に撮っておいたので、再度ひっぱりだします。
「だから修行なくして読んで欲しくないお経なんだってば!」という空海さんの気持ちを、ヨギ翻訳にすると「ヨガの修行で性欲がコントロールできるレベルになってから読まないと、セックス肯定しまくり経典だと勘違いしますよあなた」ということだと思うんですね。
人間の欲望の全面的肯定ではないお経なのですが、その考えは、
『人間の欲望は「泥中の蓮」にたとえることができる。煩悩(汚れた泥沼)があるからこそ人は悟り(蓮華)をひらくことができるのである』
と解説があります。わたしはここに対して、「そうかなぁ」と思うんです。泥の中からでなければひらかない、ということでもなかろうと。
ヨガ密教が中国に伝わった時点で身体アクションが儀式的な「動作」になっている印象とあわせて考えると、(これはめちゃくちゃ心身修行に寄った解釈ですが)「修行による性欲のコントロール」について正しく言い伝えられていないことが混乱の原因かと思います。マントラやディヤーナはしっかり体系化され、プラーナーヤーマも阿息観などで生きてたものを感じますが、空海さんが教わった時点で、ヨガ密教に「身体的な行(アーサナ)」はなかったのではないかと思います。
あったとしても、以前紹介した以下のようなものしか、わたしもまだ見つけられておりません。
★丁字坐(pratyalidha「丁字立」)
なんだか結局、「お経」の紹介なのか「西遊記」の紹介なのか「ヨガ」の紹介なのか、かなりとっちらかってしまったのですが、この日記の傾向を見ていただけるとわかりますとおり、このへんはもうぜんぶ繋がってるんです。なので、どうしてもヨガブログなの?仏教ブログなの? ということになってしまうんですね。不思議。