うちこのヨガ日記

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文と質の論争 釈道安の仏典翻訳論「五失本三不易」

先日、仏典漢訳の世界で釈道安(312〜385)というかたが残した「五失本三不易」という翻訳論の存在を知りました。
釈道安さんご本人は訳者ではなく漢訳事業を助けた人だそうで、中国仏教の基礎を築き、「鳩摩羅什を中国に招くよう、苻堅に建言した」と Wikipedia にありました。
鳩摩羅什その人物像がかなり魅力的な人ですが、それはさておき、翻訳事業家として以下の方々とあわせて「四大訳経家」と呼ばれています。

  • 玄奘(日本でもおなじみの三蔵法師
  • 不空金剛(空海さんはこの人の生まれ変わりとも言われた)
  • 真諦(「金三十論」サーンキヤ・カーリカーの訳を残している)


その鳩摩羅什さんを呼び寄せた釈道安さんが「インド語原典を中国語に翻訳することによって失われるもの」として以下を列挙されています。

胡語(西域の外国語)を漢語に訳す場合に原形を失う五つの点がある。
第一に、胡語は語順が異なるので、漢訳にすると本来の語順が失われる。
第二に、胡語の教典は質朴(質)を貴び、漢人文雅(文)を好むので、衆生の心にぴたりと適うものを伝えるのには、文雅でなければならず、本来の質朴性は失われる。
第三に、胡語の教典は委曲を尽くし、仏や菩薩を詠嘆する箇所では三度でも四度でも同じ表現を丁寧に繰り返して煩を厭わないが、漢訳ではそれを省略する。
第四に、胡語の原文には「義説(意味内容の解説の意か)」があり、かなりの分量に及ぶが、漢訳ではそれをすべて除去する。
第五に、胡語の原典は、何かある事柄がすべて終了した後に再び言及する際、前の言葉を繰り返しとりあげてから新たな説明に移るが、漢訳では反復を省略する。(大正五五、五二中〜下)
<「仏典はどう漢訳されたのか」船山徹/岩波書店 P116より>

これは「摩訶般若般若波羅経抄序」(『出三蔵記集』巻八)の一説で語られているそうです。
わたしはギーター訳で言語の問題があまり語られないことがかねてより気になっていたのですが、中国では4世紀(といったらヨーガ・スートラの時代ですね)にすでにこのような記述が残されている。



先に「五失本三不易」の存在を知って、「仏典はどう漢訳されたのか」という本を見つけたので釈道安さんに関連する部分だけを読んでみたのですが、どういう話かというと

もちろん原典に忠実で、かつ、意味が明瞭簡潔ですらすらと頭に入る訳(文質彬彬)が理想であるが、そのような訳を実現するのはきわめて難しい。近い関係にある二言語間の翻訳ならば、両条件を満たすことも可能だろうが、梵語から古典漢語への翻訳のように言語的に隔絶のある場合、とりわけ両条件を備えた翻訳は困難である。その場合、あえて選ぶなら、読みにくくてもとにかく直訳のほうがよいか、少々原典から乖離しても全体的意味のわかる、読みやすい訳の方がよいかが、この論争の要点である。
(同上、P114)

というもの。
翻訳で失うものリストの「第二」の文雅の問題は、ギーターの日本語訳だと逆のむずかしさがあるし(後日書きます)、「第三」の「胡語の教典は委曲を尽くし(とにかく細かい)」というのもよくわかる。


ここ2年くらいなんとなく気になっていたことなのですが、こういうものがあることを知り、「だよなー」とこころの中で何十回もつぶやきました。


▼この本に載っていました