うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

仏教発見!  西山 厚 著

読みやすく、とてもやさしい社会科の先生の授業を受けているような感じ。
著者は奈良国立博物館の資料室長のかたです。仏教に対する少年のような探究心をもつお人柄が伝わってくる文章です。
いくつも棚にあった仏教本の中からこの本を手に取ったきっかけは、たまたま開いたページが最澄空海の交流について書いてある章だったため。この本では最澄側の流れから書かれています。


ほかの「仏教を知ろう」系の本と違って面白かったのは、写真つきで紹介している仏像や絵画のチョイス。このほか、2つメモを残したので引用紹介します。

<90ページ 「初めと終わり」の章より>
野球で、ホームベースに立っているだけでは得点にならない。一塁、二塁、三塁を経てホームベースに立つと得点になる。初めの場所に戻ることは大事。深まれば、そこはもう同じ場所ではない。初めと終わりは同じようで同じではないのである。

上手な説明だなと。わたしはよく「ドラクエ」とか「コロンボ」とか言っているのですが、やろうとしていることにまつわる経緯や材料、関連要素との接続点を調べながら何度も組み立てなおしていく作業で、「またこれでは元に戻って考えなければいけなくなってしまいました」と仲間がじれていたりするとき、こうゆうふうに説明すればいいんだな、と。
うちこはもう慣れているので、そもそも「ちょっとそこはコロンボお願い」と言っている時点で、引き戻される感覚を持つ可能性も含めて、要素を探ることが目的なのだけれど、コロンボしている本人はもうどっぷりその中にいるので、じれちゃうんですよね。じれてしまうくらい一生懸命な人への、はげみになる表現。


<165ページ 「ただひたすらに念仏を」の章より>
民芸運動を始めた柳宗悦さんは書いている。「あらゆる知識は、慈悲になって外に出ないといけない」。法然は、まさに「あらゆる知識が慈悲になって外に出る」生涯を送った人だったと思う。私たちも、生涯かけて学び、その知識を慈悲に転じて生き切ることを、及ばずながらも目指すべきではないだろうか。

及ばずながらも目指すべき。ほんとそうですね。
「わかりやすい表現」「身体へ感覚的に伝わる表現」の難しさを学ぶ日々ですが、「いつかわかってくれれば」という思いと、「私もまだまだ発展途上で、いまはその途上の表現」であるということを忘れずに、生涯をかけて学ぶ「法然イズム」をお手本にし続けなければ。



仏教もヒンドゥー教も、人を含めて環境と交わっていくための教えなのだな、といつも思うのですが、今年はこうゆう本に本当に助けられました。