うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

もっとよくわかる世界の三大宗教 かなり素朴な疑問・篇 (KAWADE夢文庫)

「三大」は、キリスト教イスラム教、仏教です。
入門雑学本なので、仏教のところはあまり読みどころがありませんでしたが、キリスト教イスラム教については無知に近い。聖・おにいさんを読んでも仏教ネタだけツボるわたしには、とても勉強になる本でした。
ムハンマドさんって思いのほか昔の人ではないんですね。どうりで身体観の盛り込みかたがアバンギャルドなわけです。「頚動脈より近くにいるからね!」っていわれたら、なんか刺さりますもの。玄奘三蔵の少し前の時代の人だなんて、知らなかった。勝手に親近感が湧きました。
こういうのって、ぜんぶごちゃまぜにして年表にするとおもしろいんです。これは趣味で、よくノートに書いてひとりで盛り上がってます。ミラレパたんと法然さんが同じくらいの時代だったりね。やだミラレパたん、最近じゃない。なんて思う。


すごく気楽に楽しく読みました。楽しかったところをご紹介します。

<57ページ イスラムでは、なぜ「飲酒」を禁じているのか? より>
コーランには「酒は敵意と憎悪をあおり、神を忘れさせ、礼拝を怠らせるサタンの業(わざ)」と書かれている。

コーランは身体内観ぽい表現が多くて、気になるフレーズが多い。

<61ページ 無利子の銀行があるほど「お金」に禁欲的な宗教は? より>
イスラム教では金儲けを否定していない。預言者ムハンマド自身が商人であったように、むしろ商業活動を積極的にすすめている。
 ただし、ムハンマドは、金を貸して利子をとることは禁じた。彼の時代のアラブでは、貧富の差が大きくなり、一部の高利貸しが富を増やし続けていた。しかし、本来神の前では人はみな平等であり、この世のすべては神のものであるはず。にもかかわらず、それを元手にして貧しい者から利子をとり、働きもしないのに儲けるのはもってのほか、ということで利子は禁止された。

なんか現代的なんですよね。ベースが。

<70ページ 仏教は「幽霊」について、どのように考えている? より>
(ここは箇条書きで要約します)
浄土真宗霊の存在自体を認めていないので、幽霊の存在も認めない。一般には迷妄の類と考えられるが、現代科学や過去の経験からは説明できない怪奇現象がしょっちゅう起こる場合は、念仏や阿弥陀経うを唱えて供養することもある。


■浄土宗:幽霊の存在もありうるとする。この世をうろついている幽霊は、落ち着き場所がないだけなので、念仏によって極楽浄土に往生できるとしている。開祖の法然は、念仏を唱えることで万人が救われると説いた人物。そこから、阿弥陀如来の慈悲によって、迷える死者さえも救われるとされる。


日蓮宗幽霊はありうるとしているが、それらは法華経を知らない不幸な存在で、死後の世界で迷っているだけ、とする。幽霊騒動があれば、祈禱祷僧が死霊の正体を見極めながら法華経を唱える。そうすれば、法華経の功徳で成仏できるという。


禅宗幽霊の存在をまったく認めない。幽霊は人間がつくったものとされ、これを恐れる禅僧がいると「お前自身が幽霊になっている」と喝が入れられる。

この整理はおもしろかった。こうやって並べると幽霊まで救っちゃう法然さんはとことんだし、禅宗はおもしろすぎ。

<109ページ 線香をたくことには、どんな宗教的意味がある? より>
そもそもは体臭を消すためのもの。(中略)
 日本でも、平安時代には風呂に入る習慣がなかったので、体臭を防ぐため、香をたいて着物に染み込ませていた。そこから、恋しい人を思うと香の匂いを思い出す、というような歌がたくさん詠まれるようになった。

きっと、「あの人の香の奥のにおいはキツい」なんてのもなにげに詠まれていたりしたんじゃないかと思います。

<123ページ 平地にある寺でも「◯◯山△△寺」と山号がつくのは? より>
 古代中国では、僧の修行は山岳地帯で行われていた。(中略)
 日本では、飛鳥寺法興寺)や斑鳩寺(法隆寺)、興福寺薬師寺など、初期の寺は平坦な奈良の町中に建てられた。
そのため、山号はつけられなかったが、平安時代になると、最澄天台宗空海真言宗を開き、それぞれ比叡山延暦寺高野山金剛峰寺をもうけた。
 これをきっかけに、山中に寺が建てらてるようになり、日本の寺院にも山号がつけられるようになった。

基礎知識的メモ。

<125ページ 「◯◯寺」と「◯◯院」。同じ施設なのに呼び方が二通りあるのは? より>
「てら」という読み方のルーツにはさまざまな説があるが、なかでも朝鮮語の「チョル(礼拝所)」がなまったもの、中期インド語のパーリ語の「テーラ(長老)」に由来するという二説が有力とされている。

「テーラ」由来のほうに、「えええ、そこぉ?」と思った。なんか単純でいいわぁ。

<150ページ カトリックプロテスタントかを、外見で見分けられるか? より>
 十六世紀、マルチン・ルターに始まる宗教改革によって、それまで唯一の正統とされてきたカトリック教会から、プロテスタントという新しい教派が生まれた。
プロテスタント」には、旧教(カトリック教会)の腐敗や堕落に「プロテスト(抗議)する人」という意味がある。
(ここからは表にします)

項目 カトリック プロテスタント
信仰のよりどころ 儀式・伝統・伝承を聖書と同じくらい重視   聖書一本にしぼる
聖書の解釈 教会が統一解釈を出す 個人の自由にまかされる
神と交わる方法 「神父」の取り次ぎを必要とする 万人が平等。神と個人が直接関係をもてる
祈りのしぐさ 祈りのあと、胸の前で十字を切る 基本的には目をつぶるだけ
祈りグッズ 数珠に似た「ロザリオ」をもっている 「ロザリオ」を使わない
像や教会 壮麗なものはほぼカトリックの教会 あっさり。聖人・イエス・マリアなどの像は置いていない
十字架 イエス・キリストがはりつけになっている   ただの十字架
教会という場、存在   聖なる場所 聖書の朗読をしたり牧師の説教を聞くための集会所


そのほか、「プロテスタント」フラグを立てるポイントとして
掲示板を出したり日曜学校をやっている
・カバーをかけた聖書を持ち歩いていたり、聖書を持ち歩いていたりする聖書中心主義
というのがありました。

密教顕教の違いによく似た感じですね。ぐっと覚えやすくなった。

<155ページ あの賑やかな「カーニバル」には、どういう意味がある? より>
(「四句節」と「断食」の説明のあとに)
 中世ヨーロッパでは、この節制の期間に入る前に、肉を与えてくれた神に感謝をささげる祭りが行われるようになった。それが、ラテン語の「肉にさよならをいう」(carne vale)を語源とする「カーニバル(謝肉祭)」である。
 要するに、カーニバルの趣旨とは、つらい断食に入る前に思いっきりはめをはずしておこう、というもの。だからこそ、人々は大いに食べ、飲み、歌い踊るわけである。

徐々に減らして胃を慣らしていこうとかいうフェード・インな考えはないようです。だからつらいんじゃん(笑)。

<164ページ キリスト教の「異端派」は、どんな教義をもっていた? より>
極端な禁欲主義に走るグループがあるいっぽう、極端な快楽主義に走るグループもあった。
「自由心霊派」と呼ばれるグループがその代表で、この派の特徴は、修行を積んだ人間の魂は神と融合できるため、罪の観念や法の支配から自由になると考えたところにあった。そこから、彼らは霊の解放のためと称して、性的乱交にふけるようになる。当然、その教義は異端とされた。
 また、一人一人がキリストであり聖霊であると説いた「アモリ派」も、自由心霊派と同じく道徳を不要とした。自分たちは聖霊の化身だから、どんなに快楽にふけっても、罪から免れると考えたのだ。その結果、乱交、近親相姦、姦通などあらゆる肉欲を認め、カトリックから「狂気の沙汰」とみなされることになった。

真言立川流みたいなのがキリスト教にもあるんだねぇ、と思って読んだ。

<172ページ 福音書の「福音」って、どういう意味の言葉? より>
 この言葉は、「エヴアンゲリオン」というギリシア語からきている。(中略)「エウ」とは「よい」、「アンゲリオン」は「知らせ」という意味で、二つが組み合わされて「よい知らせ」「吉報」という意味になる。

これ、エヴァ好きの人には常識なんだろうか。わたしはガンダムの中のインドに気づくのがけっこう後だったので、当然このこともこの本で知った。北斗の拳とヨーガ孔雀王真言宗など、知っっておくとなお楽しいアニメは多い。

<182ページ 男性教徒は、なぜ頭にターバンを巻くのか? より>
ムハンマドのターバンが緑色だったことから、緑は預言者ムハンマドの子孫を表すようになった。なお、現在中東の国々の国旗に緑色が多用されているのも、緑を神聖な色としているからである。

緑色について気になる人向けのメモ。


社会のこととか英語とか、なるべく直近で役立つことを勉強しようと思っているのに、また歴史の勉強をしたくなってしまった。