うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

これでもいいのだ ジェーン・スー 著

平日を自宅で過ごすようになり、著者のラジオ番組「ジェーン・スー 生活は踊る」をリアルタイムで昼休憩中にときどき聴いています。以前はまとめて聴いていた人生相談も、週に何度かリアルタイムで聴けるようになりました。

そんなある日、時間制限のある生放送で相談者にこんな風に向き合うなんて、さすが! と思う回がありました。そして急にエッセイが読みたくなりました。

 

わたしが気になった相談は、文面から断罪リクエストが溢れ出たもの。自分は安全な場所(人に頼まれると断れない性格なので、他人に利用されやすい気がします… モジモジ…  というポジション)を確保しつつ、自分が蔑んでいる相手の失礼で雑な行動をジェーン・スーさんに斬ってもらおうという期待の見え隠れするもの。

こういうのってどんなふうに対応するのだろうと思いながら聴いていたら、「あなたのその気持ち、文面から漏れていますよ。こういうことはあまり言ってくれる人のないことだから言いますけど」というトーンで返答されていて、そこからぬぬぬと聴き入ってしまいました。

 

人生相談の回答者として誠実さを保つには心の体力が要ること。相手が自分に親しみの感情を持っている、もしくは便宜上そのように表明しているときほど、精神は削られる。

世間で「先生」と呼ばれることのある仕事をしている人はほとんどそうだと思うのだけど、他人の悪行を明るみに出すことを燃料に日々の憂いを回避する人と関わるのは、なにげにしんどい。その状況に対応されている声を聴いて、急にエッセイを読みたくなりました。

 

そんな余韻とともに読み始めたのだけど、この本はだいぶ違う雰囲気。そりゃそうか。こっちは人生相談じゃないものね。それでも書き方は一貫して社会問題に対する自身のスタンスがきれいに整理されていて、意思の整理の達人ぷりが安定している。

傷口を舐め合うという言い方があるけれど、傷の痛み方は中年になると心の皮膚の厚さや筋力次第でだいぶ違う。カテゴリとしては同じ傷でも、いきなり絆創膏を貼らずにいったん乾かした方がいいこともある。ただ、なんで乾かした方がいいのかは経験を語らないと伝えられない。そういうことの伝え方が、いちいちうまい。

 

たとえばハリウッド映画界の権力セクハラについても、こんな視点で書かれています。権力者側に立った場合の自分もイメージしながら悩んでおられるご様子。

 自分と権力を力づくで引きはがし、相手を同じ人間として尊重し続けるには、正義や倫理以上に、生きるセンスがいる。常に腰を低くしていればいいという問題でもないし、誰とでもフランクに話せばいいという話でもない。

(ハラスメントと権力 より)

わたしはハリウッド女優へのセクハラの件を知ったとき、自分のなかで怒りよりも落胆が大きかったのをよく記憶しています。「日本ではよくあることでも、アメリカではそんなことないはず」という希望が幻想であったことを突き付けられたから。

もちろん日本でもそんなのはダメで、あってはいけないこと。でも心根のところで日本で起こることは意外と思っていない。自分ももし権力のあるおじさんに生まれていたら制御できないものなのかもしれないと想像するこの感覚は、友人とおじさんLINEごっこをしながら憑依力を文章と絵文字で競い楽しむ瞬間に感じるものとまったく同じ。やはり社会の中でそこを制御する力は理性というより「生きるセンス」で、わたしが求めていたのはまさにこのフレーズなのでした。

 

自分がどこか加害者側の気持ちを想像できてしまうことについて正直に表明することは、この頃は特にむずかしい。誰かがコツコツ一生懸命作り上げてきたものをうっかり壊す人になっていないかという複雑な罪悪感がわくし、誰かが被害者を慰めようとして「うそー!ありえない!ひどい!」と声を荒らげてくれた瞬間から、さらにむずかしくなる。「うそであってほしい。あってはいけない。ひどい」と言われれば落ち着いて話せるのだけど。

こういうのって被害者サイドに100%乗れるかっていうとそうでないところが、多くの人が口をつぐむ要素なんだよな…。

 

 

『「大丈夫だよ」と言ってほしかった』というエッセイにある、時間をおいてからの自己の掘り下げも印象に残りました。

この一行の差し込みかたが的確。ここしかないってところで入る。

 大人にだって、子どものしっぽは残っている。

著者はこのエッセイのなかで、自分が望んでいたであろう対応をしてくれなかった人を責めません。まあ責めようもないのだけど。というか、責めようがない仕組みそのものがつらいということを可視化する。大丈夫とは言い切れない瞬間に「大丈夫」と言うしかない大人同士の声がけは、身近と感じる間柄であればあるほど残酷なもの。その問いかけの文字列になんら落ち度がないだけに(想像力もないけれど)、なおさら追い詰められる。

わたしは何十年もかけて(昨年国際ロマンス詐欺に遭ったのをきっかけに)自分のお姫様願望にあらためて気がついたのだけど、中年になるとこういう自己への気づきが急にぐわっとやってくる。

やさしくなるのも素直になるのも、大人になるとむずかしい。子どものしっぽの存在を知りながらしまっておく肛門の筋力はぞんぶんに鍛えてきたけれど、でも事故的にオナラが出ちゃうこともある。あるよー!

 

このエッセイ集は「これでもいいのだ」というタイトルだけど、そこは「これでもいい」にしないほうがよさそうなものもありました。洗濯機の話を読んで、そんな偉そうな仕様の家電は行きすぎだし、そんな進化はいや!という気持ちになりました。

マッサージの本の時もそうだったけど、誠実さをアピールをしながら本来主役であるはずの利用者を追い込んでリスクヘッジをちゃっかりするサービスや製品のいやらしさを書くのが本当にうまい。そういう「なりすまし」を見逃さない。そして、気づいているけど黙ってやり過ごすことでさらに傷ついている人の痛みのツボを、外さずにきっちり押してくる。刺さるわ。

これでもいいのだ (単行本)

これでもいいのだ (単行本)