誰かがそれを表明することによって、芋ずる式に情報が集まる。そういうことってありますね。
先日、インドを旅したひとりの若者によるウェブ上への詐欺被害投稿をきっかけに、いくつもの似た手口の経験が掘り起こされているのを見かけました。
最初に紹介した記事のコメントに「命を奪われなくてよかった」というあたたかい目線が多く、ほっとしました。
なんでひっかかるの? というのが一般的な反応かもしれないのですが、「疑う」という行為を続けるのって、しんどいんですよね…。わたしはインドで断れない展開になってしまう人の気持ちがよくわかります。はじめてでもリピーターでも、「疑う」という行為を続けるのがしんどいこと自体は変わらない。
半分は経験と学習で防げるけれど、そのときの冷静さは体力とトレードオフ。最初の段階で防げないと、目減りする体力と共にどんどん状況が不利になっていく。そうやって追い込まれていく。
それにしても、最初のリンクの内容の読みやすいことといったら! いまどきのヤングは本当に文章がじょうずね…。
女性の事例はさらに表に出てこない
金品を騙しとられただけでもショックで文章にするのが大変なのに、女性の場合はさらに性的被害に遭っているケースも考えられ、いずれにしても思い出したくもないという人がほとんどではないかと思います。
インドというのは困った場所で、しんどいことと同等あるいはそれ以上にすてきなことも経験するので、その思い出を大切にしたい気持ちがつらかったことを打ち消そうとする。そういう心理作用も起こります。
詐欺の手口については「地球の歩き方」にたくさん載っているのだけど、油断すると大なり小なり引っかかる。デフォルトで必要とされる緊張感が他国と圧倒的に違うので、警戒し続けることへ配分する意識のカロリーが残っていないということが起こりがち。
今回わたしが国際ロマンス詐欺師について書いたことで、「実はわたしもこんなことが」という話が複数リアルで届きましたが、実際はめちゃくちゃたくさん起こっているんじゃないかな。
ほかのかたと自分の経験を振り返ってあらためて思うのですが、日本での日常が「エスコートされる」とか「もてなされる」ということから遠ざかりすぎていて、それが急に目の前で起こると嬉しくてフリーズしちゃう。しかも先方は顔が濃いので、ものすごく濃くエスコートされている感じがする。
最初の若者の文章を読んでいると、相手(読み手)のことを考えることのできる、元来「おもてなしをしたい」性格の人であることが伝わってきます。だからこそ、世の中が親切な世界だと信じたいからこそひっかかってしまう。
でもインドではそこで「ほうか。おおきに。で、自分いくら欲しいん?」とたずねる図太さがときに求められる。そういう返しをすかさず入れることのできる「関西のベテランのおじさん」を自分の中に住まわせておかないと危険な場所。わたしはこういうシミュレーションを標準語でやってもうまくいかないので、脳内では関西弁で練習して、それを英語で口から出すようにしています。
今回なんどか「I know,I know, your purpous is money.」くらいの返しはしていたのですが、「なんでそんな言いかたをするんだ! 僕たちはハート、スピリットの話をしてきたのに」と返された後の準備が足りていなかった。
次回はほんとうにほんとうに、慎重におとなしくするぞ~と今から思っています。