ヨガ講師をしている方からお話を伺い、気になって読みました。
読んでみたらヨガの教えと共通点するところが多くありました。
少し前に読んだシュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカール氏の本で展開されていた説法とよく似ています。日本の作家では宇野千代さんの文章がすぐに思い浮かびました。
特にアドラーの「目的論」は、以下の理由で納得でした。
わたしは子供の頃に『アルプスの少女ハイジ』を見て、クララは最初から立てたんだけど、仲間と思える人にかまって欲しかったんだよねと解釈していました。
奇跡ではなくその身体能力はハイジと会う前からあったよねと思って見ていて、その上で何度も感動していました。
この本『嫌われる勇気』は対話形式で、質問者の青年に、引きこもりの友人がいるという設定です。
青年はその友人の思考を想像で内在化させ、哲人(講師のような人)に怒りの感情をぶつけます。
アドラーの教えを説く哲人は、「だったら君が本気でハイジの役をやったらいいじゃない」と。そういうことを遠回しに伝えているように見えます。
ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。
(『嫌われる勇気』ほんとうの自由とはなにか より)
日常生活のなかで「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇には収まりません。劣等コンプレックスです。
(『嫌われる勇気』言い訳としての劣等コンプレックス より)
クララが乗り越えたのは、こういうことだったんじゃないか。
クララの気持ちを代弁する青年は、代弁するだけでハイジ役をやる気がありません。
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このほか、ヨガの教えと似ていると思った箇所に以下がありました。
記憶も感情も道具
わたしはヨガの教えに「記憶」と「自我」の紐付けの言及が多いところが好きなのですが、アドラーの思想も以下の点が共通しています。
記憶については、こう考えてください。人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、今の「目的」に合致する出来事だけを選択し、意味づけをほどこし、自らの記憶としている。
(『幸せになる勇気』あなたの「いま」が過去を決める より)
ヨガの場合は記憶もvrttiに含まれるし、記憶そのものを定義するsmrtiのほかに、その記憶の刻み方や刻み癖のようなものを指すvasana、そしてそれと自我を紐づける時の自我にahankaraがあり、「記憶って、刻み方も取り出し方も脚色のしかたも自分で選んでたんだな・・・」という理解につながります。
それだけで人生が良くなるわけではないけれど、「自分で選んでいる」という感覚は責任感を植え付ける。そこがヨガのアプローチとよく似ています。
ライフスタイルという定義
アドラーが用いた「ライフスタイル」という言葉には性格や気質を指すものが含まれ、カントの説いた「傾向性」との共通点があると語られていました。
わたしはここにヨガとの類似性を感じました。
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
(『嫌われる勇気』人生は他者との競争ではない より)
あなたは「あなた」のまま、ただライフスタイルを選びなおせばいい。
(『嫌われる勇気』あなたの人生は「いま、ここ」で決まる より)
その人が 「世界」をどう見ているか。また「自分」のことをどう見ているか。
(『嫌われる勇気』人は常に「変わらない」という決心をしている より)
「ライフスタイル」の語りは変化を嫌がる日本人にとって耳の痛い話です。
自分が自分に対して「こうありたい」という意思を持っていなければ劣等コンプレックスに陥るというのは鋭い指摘。
共同体感覚とアドヴァイタ
アドヴァイタというのは、ア=no ドヴァイタ=二元性 で、英語では non dualism と訳されます。日本語だと、わたしの感覚では「境界線を引こうとしないこと」という感じ。英語でonenessという言い方もあります。
アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。
(『嫌われる勇気』対人関係のゴールは「共同体感覚」 より)
アドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます。
(『嫌われる勇気』あなたは世界の中心ではない より)
われわれの共同体は、「ありとあらゆる仕事」がそこに揃い、それぞれの仕事に従事する人がいることが大切なのです。その多様性こそが、豊かさなのです。
(『幸せになる勇気』いかなる職業にも貴賎はない より)
上記はバガヴァッド・ギーターでアルジュナが戦士の仕事から逃げたがるけれど「ざーんねーん。逃げられへんで」とクリシュナに説得される展開を思い出させます。
仕事や責任がなければ他者との関係性の中で自己を見出せないし、孤独すら認識できないでしょう? と。
帰属先・所属先への執着
死の苦しみを肉体への執着と捉えたり、身体を魂の住居、現在の所属先(現生)と捉えるヨガの考えは、以下の部分と重なります。
アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属欲求」だと考えます。
(『幸せになる勇気』「わたしであること」の勇気 より)
10年前に夏目漱石の『こころ』の読書会でこの話(abhiniveshaの話)をしたことがありました。
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上記にリストアップしたものは納得した箇所です。
一方で、「無理だ!」とこの本の青年のようにギュッと心が拳の状態になる教えもありました。
『幸せになる勇気』で語られていた、たとえその人が嘘を語っていたとしても嘘をついている人ごと信じる “信頼の能動性” についてです。
これは “慈悲” について述べられていると思うのだけど、否認の病にかかった人(目の前で堂々と嘘をつく人格に変わっていく人)を前にそれを行使し続けることが、わたしにはできなかったので。
“これは自分にはキツい。無理だ”と感じるところを、この本について話してくれたヨガ講師のかたに伝えてみたら、アドラーはもともと児童心理学や教育の人だから、それを大人同士の関係に当てはめたらそぐわないところも出てくる。それはこの教えを本に落としこむときに生まれてしまう、伝わり方の面でカバーしきれない範囲じゃないか、とのことでした。
このほかにもアドラーの教えには「見せかけの因果律」「安直な優越性の追求」など、やりがちなことを戒める要素があります。
わたしはこういう “マーケティングがうまくいった本” に対して斜に構えてしまうところがあって、ずっと読まずに来たのだけれど、よいタイミングで知ることができました。
過去に理由を探して都合よく記憶をチェリー・ピッキングして料理したり、手に入れやすい優越性を利用する人生を選んでいるのは自分。自分で好きでやってるんだよ、という突き放し方がそこにあります。
よくここまでパッケージ化したなと思うほど凄みのある本でした。