更年期のメンタルについて、わたしなりになにか書きつけていきたいと思っています。
思春期のことを思春期の頃には言語化できなかったので、そういうことをしたくて。
ここ半年の間に、2年前に綴った四十肩・五十肩日記について「思わずあれを読んだよ」と言われることが何度かありました。このように、その時感じたことを書き残しておくと、いつかどこかで仲間の役に立つこともある。
そう信じて書きます。
6月初旬に、こんなことがありました。
久しぶりにオフィス街へ出かけて駅前の道を歩いていたら、ふいに情緒が滅している感覚と出会いました。新しいものを見てもワクワクしないまま歩いている。漠然と空白を埋める情報を求めているような気はしているのだけど、高揚感にはまったく期待をしていなくて、ほっこりしたいわけでもない。
そしてその数日後に友人とチャットをしていたら、『センセイの鞄』という小説を読んで泣いたという話を(文字で)してくれて、その時の友人の感覚と自分のあの時の気分が重なっているように思いました。
大人の思春期のメロディは、黒鍵盤を踏みながら左へ降りる音がたまにふわっとやってきて、そこで「えええなになになになに」と動揺して音を捉えて錯乱すると、絶望っぽく強くガーンと鍵盤を押してわかりやすく曲調を決めたくなったりする。
だからこういうときは、ふわっと左へ降りる音の連続に合う、とろんとした物語でモードを優しいメロディに変えてしまうことが、心の薬になるのかもしれない。
あとね。
これは友人の話から自分もそうだと気付いたことなのですが、極端なものや陰気なものがしんどくなっています。共感やアテンション欲しさのネガティブ表現、ユーモアの入る余地がない深刻さを引き受けられない。
自分の井戸の水位が下がっている時に大きなバケツを持って来た人を見た瞬間に起こる、いまはアテンションが枯渇しております、と暖簾を下げたくなる感覚。これは怒りでも不機嫌でもなく、売り切れのような感じ。でも目に見えないから説明がむずかしい。
自分の水位が自分でも見えていないところにディスコミュニケーションの原因があるのだけど、それが「更年期=イライラ」と扱われてしまうのはなんとも厳しい。でもそこは、なんとか抑えたい。
情緒の泉が完全に枯れて自暴自棄になることがないように、うまくやりくりしなくちゃ。
いずれにせよ、なんにせよ。
社会の大変化と身体の大変化イベントが同時演奏のこんな時は、前後左右を歩いている、同じ課題を認識している仲間とのコミュニケーションが命綱。楽しいメロディ、優しいメロディ、そしてズンドコな調子をうまく取り入れながら。
ここ数週間、そんなことを感じるきっかけがいくつもありました。
新しいおかしみを開拓するのだ〜
これはある日の友人宅での、イソフラボン・ナイト。
普段はひとりで開催しているのですが(毎晩冷奴を食べている)、二人になると品数が増えて楽しくなります。豆腐そのものと豆腐のおかずと豆のお菓子。あとは、好きなものと残り物!
この友人は「美味しいものはみんな茶色いのだ」と主張する茶色党の党首のような人。そしてわたしの Instagram も、おおむね茶色よ〜。
バエないおかしみを大切にしています。