わたしはデジタル・ネイティブの世代ではないけれど、デジタル化の波と共に生きてきてこれからもそれが続く。そういう時代を生きています。
いまはデータ保存を随時クラウドでバックアップしてくれるような状況が増えていて、うっかり消してしまった、みたいなことをやらかす機会が少し減っているけれど、たまにやらかします。
あの瞬間に起こる気持ちは、何度経験しても複雑。ただの「獣」とは違う「デジタルの人間の獣」みたいなのが出てきてビビるのです。
あんなにやったのにーーー!!!
ガオオオオオオオオオーーーーー
蓄積の消滅を認めることの難しさが、ドスンとくる。
内容の小ささに関係なく、くる時はくる。
タイ旅行中にもそんなことがありました。久しぶりに会える友人を待っているカフェで、デジカメを操作中にメモリーカードが半分抜けるみたいな状態になって(機械の中でふわっと抜ける感じ)、急に今日のデータしか残っていない状態になりました。
「消滅した」と思ってパニック状態になっている時に友人がカフェに到着し、念願の再会の瞬間を焦った気持ちで迎えてしまいました。
落ち着いてカードを挿し直すことを思いつく前に、ぐわっと押し寄せてくるアレに名前はないものか。
アレが起こると必要な礼儀を欠いてしまったりして、一番嫌なのは、自分の中で立ち上がる自己弁護の mini me の集団に乗っ取られてしまうこと。
「しょうがない」「わたしは悪くない」「誰にでも起こる」みたいなことをピーチクパーチク言う集団と、「なんだお前はそんなことで自分を見失うのか」「復活方法を知らないだけなんじゃないのか」「じゅうぶんに手は尽くしたのか」と問う集団がぐわーっと合戦をはじめる。
わたしにとってパニックとは、こういう「合戦」。
そう、合戦が起こったんですよねぇ。
こうなった時は、中村元先生の原稿紛失事故のような偉大なエピソードを知っていたとしても、それはそれ。かえってスケールが大きすぎてピンときません。
合戦になると一対一の試合ではないから分解できない。そういう波に呑まれます。
これは、旅のときのお話。
* * *
今年は少しずつ外で仕事をする機会も増えて、ここ1ヶ月の間に、何度か小さな合戦がありました。
「ワンタイムパスワードを発行するトークンが見つからない! 昨日サテライトオフィスのデスクに置き忘れてきたか・・・」とか、そういう些細なやつです。
Suicaを忘れるとかハンカチを忘れるとか、もうそういうのは「平常運用」なのだけど。
こういう日々の「合戦」への対処法を、昔インドの人も考えたのだと思います。じゃなきゃ、あんなにたくさんの呼吸法を開発しないと思うのよね・・・。