ここ数年で学生時代の友人と話す機会が増えました。
お子さんが成長して時間ができたり、独身の人もライフスタイルが変わったりして。
ヨガや旅で知り合った仲間とも、いろんな話をします。
40代→50代の人間関係って興味深いものですね。これまで内面的に乗り越えたことを話せると、少しは時間薬が効いてきたことに気づいたりして。
わたしは人の話を聞くことで、以前よりも「耳学問」を意識するようになりました。
これは高峰秀子さんや沢村貞子さんのエッセイで知った言葉です。
高峰さんの場合は幼少期から子役の仕事が多く学校に行けなかったので、読み書きとは違う方法で、仕事を通じて会える尊敬する大人の言葉を耳で聞いて社会を知ったという文脈。
沢村さんの場合は、東京の下町文化の中で耳にした「ストリートのことわざ」みたいなものをたくさん携えていて、それをエッセイの中で「耳学問」として随時ちょこっと引っ張り出しています。
耳を使いながら我を知る
誰かと言葉を交わす時間が、自分の意識・感情・人生観を探究する時間になっている。
「ストレスになるから人と交流しない」という選択が、「自分の人生観を探求できない空虚感」という別のストレスと同居する。
こういうことがわかってくるのが人生の後半なのかも。
* * *
さて。
バイザウェイ。
ところでよ。
わたしはずっと前から、人が自分の殻に閉じこもってしまう理由に「母語から母語に変換するのがしんどい」という脳の働きがあると思ってきました。
日本語から日本語への変換です。
だからひとりで本を読んだりする。他人が変換してくれた言葉に便乗している。
旅先でマインドがオープンになれるのは、脳内におけるそれがブロークンな英語だから。
「○○が」「○○を」「○○に」の助詞を曖昧にして、ほぼ○○だけで話しているから。
言質や責任を棚上げできるから。
ここ数年、書店で “書く瞑想” として心の中の思いを文章で書き出す「ジャーナリング」の指南書を見かけますが、これは、そもそも母語から母語に変換するのがしんどい状態だとむずかしい。
母語から母語に変換するのがしんどいわたしを助けてくれるのは、言葉を交わす誰かの存在。
人間に媚びる仕様にアップデートされたことで話題の ChatAI が重宝されるのは、ちょっと変な言い回しで話しかけても相手(機械)の血流に影響を与えないことがわかっているからで、それは、自分の発言を迷惑と思わない存在そのものの価値。
そこにニーズがあるんですよね。
* * *
先日友人が、自分の親が明らかに詐欺行為をこれから行うであろう人を家に入れているという話をしていました。
娘である自分の注意は聞き入れてもらえない。本人の中で信じたい気持ちが先に立っているからどうしようもないと言っていました。
そう話す友人を見て、わたしは「この人、わかってるなぁ」と思いながら信頼を寄せました。
話し方の中に、あきらめのプロセスと葛藤がしっかりあったことが見えてきたから。
予感していても止められないことって、あるものです。
会話の筋肉は使わなければ衰えていく。
「詳しく話さなくてもわかってよ。察してよ」という気持ちが体重のように増えていくと、立ち上がれなくなって、膝を壊したりする。
体も心も、同じこと。

いい感じで散らかっている友人の家の台所。わたしの好きな景色です。
そうそう。人生はこうやって散らかるものよね、って思うから。