うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

流れる(映画・成瀬巳喜男監督 1956年/原作 幸田文)

小説も映画もそれぞれおもしろく、わたしは小説映画の順で観ましたが、逆の順番でもそれはそれで別の楽しみがあり、双方が最高です。

 

映画を観ながらこうきたか〜! と思って脚本のお名前を確認したら、

晩菊』と同じ

 

 

  田中澄江 × 井手俊郎

 

 

の組みわせ。

でたーーー!!!

映画ならではの、音のある映像で表現できる部分の演出が素敵です。

豪華な女優陣が経営とお金と化粧と恋の話をしています。

 

 

高峰秀子さんが演じる「勝代」は原作小説ではかなりアンタッチャブルなキャラクターで、美人の母に対して気の毒なほど器量く性格も卑屈で学級委員長的(まるでちびまる子ちゃんに出てくる「みぎわさん」)な娘なのですが、映画では高峰さんなので器量は悪くありません。

 

映画では魅力的な女優さんが演じることになるので、その設定が他の要素に置き換えられます。この置き換え方がすばらしくて。

倫理道徳で身近な人を斬ってしまうアレな性格を、”華やかな芸妓が出入りする空間でせっせとミシンを踏む仕事を始める” という形でポジティブに変換させています。それを「あなたらしくていいじゃない」と芸妓もカラッと肯定していく。

いい。これはいい!!!   この変換は最高です!!!

 

 

原作小説のなかで、勝代のつらさは女中・梨花の視点から以下のように観察されています。

 そのなかで気の毒なのが勝代だった。米子のような白痴に近い表現をしてしまうことはできないのだし、染香のように一ト口割りこませてよなどという、さばさばした調子ももてない。第一、気がありそうだとかんぐられやしないかと、それがもう心配で羞しくていやなのである。それほどに弱いのである。弱いから、もし何か云われたときにはちゃんと申しひらきのできるように用意がしてある。母と自分とこの一家にふりかかった一大災難を救ってもらうのだから、その恩を感謝していて何が悪いという理屈なのであろう。そんな理由がなんのたしになるものではないのに、あたかもそれで万人に呑みこませることができるものと心得て安心しているところが、初心まるだしの弱さであった。

 

家に出入りする男性に笑顔ひとつ見せるにも理由が必要なほど、彼女には経験も自信もありません。

華やかな “くろうと” の世界の芸妓たちと、地味だけど見栄を張らなくてもいい “しろうと” の女中、そのどちらでもないところで苦しんでいる勝代が実はいちばんしんどい。

原作では “何者にもなれないわたし” という現実が容赦なく書かれていますが、映画では地味だけどコツコツ技術を積める新しい仕事が与えられ、時代の変化と絡めて勝代へ向けられた救済の手法が絶妙です。

泣けるし、それ以上に笑える。すばらしい映画でした。