うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

新興宗教の存在を感じること。インド創価学会の人に出会った経験から考えたこと

先日、わたしが子供の頃の家庭内での経験から考えてきたことを書きました。
わたしが経験したようなことは、家庭でなくても学校の友だち、職場で知り合う人、近所の人、趣味で知り合った人、旅先で出会った人など、"この人はそれを心の拠り所としているのだな" と思う場面に出会うことはきっと誰にもあって、でもだいたい、いちいち言語化しないまま流しています。

 


脳内にかかる細かな負荷を考えると、見なかったことにしたり、昔からあること・なくならないものとしてマクロに視点を移してしまうほうが、個人のストレス・マネージメントとしては、まあ効率的です。
この「まあ効率的」の積み重ねが社会の仕組みに影響していた。わたしはいま30年ぶりに大きく話題にされている状況を、そのように捉えています。

 


今日はマクロに視点を移してしまう前の中間の状態について、個人の経験を書きます。

このことについて以前書いたことがあったかな……と振り返ってみたら、インド創価学会の名前をタイトルに入れて書くことはしていなくて、以下の本の感想のなかで、それに便乗するかたちで自分の経験を書いていました。

 


そして今日は、自分の経験そのものをタイトルにしました。
2012年にインドで数ヶ月過ごしていた時に、インド創価学会(BSG)の人から親切にされたことがありました。日本人のわたしを見つけて、話がしたかったのでしょう。数日間のうちにどんどん距離を詰めてきました。

 


その人はわたしが数ヶ月滞在していた宿泊施設にある食堂のオーナーで、わたしはそこで食事をとることはなかったのですが、練習から戻る時間に声をかけられるようになり、数回ラッシー(ヨーグルトドリンク)かチャイをいただきました。
2012年の時点でインド創価学会はコミュニティとしてずいぶん拡がっていて、インドの人々の日常的な信仰と並行して「あたたかい人間づきあいの組織」として大きくなっているようでした。
食堂の奥の本棚に並んだ本を紹介され、大きなイベントには多くの人が集まると聞きました。インドの人は大いに話を盛ることが多いので、いつものように流して聴きつつ、驚いたことを記憶しています。

 

 

数日後に、その人から親切にされている状況について、状況を怪しんだふたりの身近な人から質問されました。


1)イタリアから来ていたルームメイト
2)親方(カマル先生)

 


二人が質問してくる背景は、微妙に違っていました。


1)のルームメイトは単純に、なんであなただけが食堂に呼ばれているのかという疑問を抱いていました。
「あの人はイケダという日本人リーダーの考え方を支持している」と言えば、その人物について尋ねられ、「あのレストランの人はブッディストなの?」という質問をされ、ほかにもその指導者はそんなに有名なのかとか、あれこれ訊かれることで、自分が日本の新興宗教に疎いことを再認識させられました。
わたしはそのグループをいま ”仏教ベースのコミュニティ” としてあなたに説明しているけれど、他の日本人に同じ質問をしたら、"政党と関係を強くしているネットワーク的な組織" と説明する人もいると思うと、そんな話をしました。
当時はヨーロッパから来ていたルームメイトと、宗教や信仰や慣習、日常的な感覚について毎日いろんな話をしていました。

 

 

2)の親方は、わたしがその食堂で何をしているのか、監督者の視点で心配していました。
その食堂がある宿泊施設は親方の学校のティーチャー・トレーニングの寮として一部を借りていて、食事は別のところで摂ることが決まりになっていました。
そのときも、ルームメイトにしたのと同じ説明をしました。たぶんわたしが日本人だから、その話をしたいだけだろう、ラッシーは飲んだが食事はしていないと話しました。
いつもだったら「コラー! また勝手に外食をして!」という感じの親方ですが、そのときは「ふーん」という反応でした。

 


帰属意識と所属意識って、ほとんど変わりのないものに感じますよね。でも、帰属意識ヒンドゥー、所属意識は創価学会という、混ざり合った状況もありうる。ああそういうことだったのかと、2年後に上記にリンクを張ったクーリエ・ジャポンの記事を読んで理解しました。

宗教というのは入信したらそれ一直線なんだというイメージは古い認識であることを、そのときに感じました。

 

 

そして、そうこうしている間にも、宗教は常に細分化してアップデートされています。
新興宗教ではない、1000年以上前からある既存宗教でも、例えばコーランクルアーン)を読んだら、イスラームの人は他の信仰を取り入れる行為をしてはいけないように思うけれど、インターネットで「hijab yoga」で検索してみれば、ヒジャブをして皮膚を露出せずにヨガをしている女性をたくさん見ます。
宗教に個人が集められているという見かたでいると、かえって捉えにくい。もうとっくに、世界は混ざっている。

 

 

今日の話は、ヒンドゥー教徒のインドの人が、仏教的な教えをインド創価学会を通じてまるで逆輸入しているかのような様子を、ヒンドゥー教の聖地リシケシへヨガを学びに行った日本人のわたしが見た話です。
ややこしいですよね。でもそのくらい混ざる。なぜか。

 


これはわたしの仮説というか途中の考えですが、帰属意識だけでは満たされないものを満たすものとして所属意識の存在がある、そういう感じなのかな、と思っています。
心理的には、わたしはこの感覚を「漠然と長いものに巻かれたくなる感じ」と言っているのですが、昭和の日本の都市では、それを企業が担っていた部分が大いにあったのだと思います。それが少しずつ崩れて企業の寿命が短命化し、それと反比例するように人間の寿命は延びている。
その中間の不安を満たすものは、数の原理で言えばニーズが高まるのが自然というか、まあそうなんだろうと思っています。

 


今日書いたこの話は、ずっと言語化して外に出すのが難しいエピソードだなと思っていて、寮にいた頃のことを知っている人や、その土地(リシケシ)の感じを知っている友人にしか話す気が起こらない、説明が難しいと感じてしまう出来事でした。

わたしは新興宗教について考えるとき、子供の頃に家で壺を撫でていた人の存在と、今日ここに書いたインド・リシケシでの経験が背後にあります。

 


“渇きを甘く見るな。潤いを管理できるのは自分だけだぞ”  

自分のなかに常にこういう気持ちがないと、極端なものから自分を守り続けるのはむずかしい。

自分の無知を認識したときのショックに耐えることだけが、結局は自分を強くしてくれる。わたしは宗教について学ぶときに、そんなふうに思うことがあります。